【OB対談】鹿取義隆×平野謙 あの時代の球場を語ろう
選手とファンの距離
写真左が平野謙氏、右が鹿取義隆氏
われわれが野球場に対して、さまざまな思いを馳(は)せるのと同じように、プレーする選手もあらゆることを感じている。現役時代はともにセ・パ両リーグでプレーし、多くの球場を体験してきたOBの2人に当時を振り返ってもらった。 取材・構成=滝川和臣 写真=BBM 平野 2人が一番プレーしたのは、俺がナゴヤ球場で鹿取が後楽園球場かな。両方ともお客さんとの距離が近かった。昔は外野の守備に就いても、ベンチ横でキャッチボールをしていてもお客がすぐそばにいたよ。 鹿取 ナゴヤはブルペンが外でしたからね。お客さんもフェンス越しに、楽しんで野球を見ていた感じが伝わってきました。 平野 外野を守っていて、よくファンと話をしたもんな。 鹿取 ヤジられたりもしました。ナゴヤで左バッターのゲーリー(元中日)の打席になって角(三男、元巨人)がワンポイントでマウンドに上がるので、投げていた僕が一度ライトの守備に就いたことがあったんです。そのあとまた投げるためにですね。そのときスタンドから氷を投げられたのを覚えていますよ。 平野 ナゴヤで? 鹿取 そうですよ。ナゴヤでビジター球団はグラウンド内を歩いてレフトの狭い通路で球場から出ていたんですけど、そこでもヤジがひどかった。球場からの出口も大変。勝っても、負けても自転車で巨人の選手が乗るバスを追っかけてくるファンがいたりして。 平野 思い出した。近藤(近藤貞雄)監督のときにやった日本シリーズもすごかったもん(1982年)。西武の選手が球場から出るときにバンバン物を投げつけられていたよ。まぁ、80年代はどこの球場も似たようなもんだったな。 鹿取 僕ら巨人は、後楽園は自分たちのクルマで帰れたからいいんですけど、甲子園、ナゴヤ、広島市民とかは大変でした。地方球場ならではのアンチ巨人ファンがいて囲まれたりしましたから。今、昔を思い返すと、狭い球場が多かったですね。甲子園ですらラッキーゾーンがあったから、風が吹いたらすぐスタンドインでした。 平野 本当だよな。俺でも甲子園でレフトに左打席でホームランを打てたんだから。めっちゃうれしかったよ。 鹿取 投手は甲子園の風を見ながら投げなきゃいけなかった。左打者は内角を引っ張っても浜風で飛ばないんだけれど、外角をコツンと当てたらすぐにレフトにスタンドイン。 平野 そう。ランディ・バースや掛布(掛布雅之。元阪神)なんかライトに打たなかったからね。後楽園もそうだった。 鹿取 風を読まなくてはならない球場は、ほかに神宮、広島、ナゴヤもそうでした。 平野 今ではホームランがぽんぽん出る東京ドームも、完成したときは、めちゃめちゃ広いって言われたんだから。 鹿取 そのずっと前に完成した横浜スタジアムだってそうですよ。ホームランが出にくいと言われてました。僕は巨人から西武に移籍して(90年)、パ・リーグの福岡ドーム(現PayPayドーム)で投げるようになると「行ったかな~」と思った当たりが、フェンス前でアウトになっていましたからね。パ・リーグでは西宮もものすごく狭かった。 平野 西宮は、俺が流してレフトにホームランを打てるくらいだから。平和台もそうだった。 鹿取 でしたね。平和台で完封なんかしたら表彰もんですよ。 平野 川崎もかなり狭かった。西武でプレーしてたとき、俺が二塁走者で打者がライト前にヒットを打ったんだ。確か二死でしっかりシャッフルしてスタートしてたし、打球から判断しても絶対にホームにかえれると思ったらベースの1~2メートル手前で捕手がボールを持って待っていた。あれはびっくりしたよ。当時・西武のコーチだった伊原(伊原春樹)さんが「おい! 勘違いしただろ」って。「ここは(川崎)めちゃめちゃ狭いんだ」と叱られたよ。 鹿取 要は絶対的にフィールドの面積が狭いから、外野も前に守らざるを得なくなる。一見、違和感ないように見えるけど、実は外野はかなり前に守っていましたよね。でも、伊原さんも先に言ってくれって話ですよね(笑)。 平野 大阪の藤井寺は内野が土で・・・
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週刊ベースボール