『クルージング』徹底した写実主義者が切り取る、善と悪の境界線 ※注!ネタバレ含みます
「人は誰でも善と悪の両面を持つ」
※結末に関する記述がありますので、未見の方はご注意ください。 「人は誰でも善と悪の両面を持つ」。ウィリアム・フリードキンのこの言葉は、そのまま彼の作家性として、フィルムに色濃く滲み出る。『フレンチ・コネクション』(71)のジーン・ハックマン演じる刑事にせよ、『L.A.大捜査線/狼たちの街』のウィリアム・L・ピーターセン演じるシークレット・サービスにせよ、フリードキン映画にはアウト・オブ・モラルな主人公たちが多い。己が信ずる正義を執行するために、それが悪であることを認識できないまま、倫理にもとる行動をしてしまう。それは公的権力への憎悪ではなく、全ての人間は等しく善であり悪であるという、彼の哲学によるものだろう。 そんなフリードキン的哲学が最もスパークしたのが、『クルージング』だ。大学院生のリチャーズ(リチャード・コックス)を逮捕し、潜入捜査の任を解かれたバーンズは、恋人ナンシー(カレン・アレン)の家に戻り、バスルームで髭を剃る。久しぶりに味わう平和なひととき。やがてナンシーは、見慣れないレザー・ジャケットやサングラスを部屋で発見する。それは、連続殺人事件の真犯人が身につけていたものだった。 あまりにも衝撃的な結末。「私は殺人犯なのか、それともゲイになったのか。フリードキンは私に最後のシーンをどう演じればいいのか教えてくれなかったので、今でもわからない」(*7)と、インタビューでアル・パチーノは語っている。曖昧ながらも、このラストが「ゲイ=暴力的」というイメージを植え付けてしまったことは否めない。倫理的には問題があることを知りながら、あえて彼はこのような幕切れを用意したのだ。 ウィリアム・フリードキンはアンチ・モラリストを気取っているわけではなく、徹底した写実主義者なのかもしれない。だからこそ、彼の作品には社会の病理が浮かび上がってくる。彼が見つめているのは、混沌としたこの世界そのものだ。最後に彼の言葉を引用して、この稿を閉じるとしよう。 「自分のほとんどの映画で扱っているテーマは、私たちすべての中にある善と悪の存在だ。私たちすべての中にある善と悪の間の薄い境界線なのだ」(*8) (*1)映画『フリードキン・アンカット』監督:フランチェスコ・ツィッペル (*2)https://www.vulture.com/2013/05/william-friedkin-interview.html (*3)https://web.archive.org/web/20080104233838/http://www.afterelton.com/movies/2007/9/cruising (*4)https://archive.md/20210927121745/https://www.insideedition.com/how-the-bag-murders-and-the-last-call-killer-put-in-focus-the-dangers-the-new-york-lgbtq-community#selection-1403.0-2347.635 (*5)(*6)(*8)https://www.combustiblecelluloid.com/interviews/friedkincr.shtml (*7)https://www.reuters.com/article/uk-cruising-idUKN2725339920070928/ 文:竹島ルイ 映画・音楽・TVを主戦場とする、ポップカルチャー系ライター。WEBマガジン「POP MASTER」(http://popmaster.jp/)主宰。 『クルージング』 11月8日(金)よりシネマート新宿ほか全国順次ロードショー 提供:キングレコード 配給:コピアポア・フィルム © 2024 WBEI
竹島ルイ