「この狼藉こそモレッティだ」映画『チネチッタで会いましょう』が描く“居心地の悪さ”とは? 考察&評価レビュー
イタリアを代表する映画作家ナンニ・モレッティの最新作『チネチッタで会いましょう』が公開中だ。本作は、時代の変化についていけず、はみ出してしまっていた映画監督が失意の後に大切なことに気づくという物語。過去のモレッティ作品を参照し、本作の魅力を深掘りするレビューをお届けする。(文・荻野洋一)【あらすじ キャスト 解説 考察 評価】
ナンニ・モレッティ作品がきわだたせる「居心地の悪さ」
1953年生まれで、もう71歳となるのだから、ナンニ・モレッティをそろそろ「イタリアの巨匠」と表してもいいのだろう。つねに居心地が悪そうで、癇癪を起こし、まるで落ち着きというものが感じられない作風も、自作における俳優としてのありようも、まったく巨匠らしくはないのだが...。彼の最新作『チネチッタで会いましょう』は巨匠の焦燥と老害ぶりを容赦なくさらけ出し、いよいよ居心地の悪さが増幅しているように見える。本稿ではそうした居心地の悪さについて考えを進めていきたい。 モレッティの映画は初期のころから、少数ながらも熱心な支持者に恵まれ、順調に日本公開を果たしてきた。しかし現状において1990年以前の初期作品へのアクセスは思いのほか難しくなっており、東京国際映画祭2024で久しぶりに初期の集大成と評される『赤いシュート』(1989)が上映されたのは僥倖だった。筆者も久しぶりにこの作品を見て、面目ないことにほとんどのシーンを忘れていたが、モレッティ映画が初期のころから、すでに異様なほどに居心地の悪さをきわだたせていたことに、改めて気づかされた。
映画作家自身の分裂した姿を見る体験
同じイタリアの映画作家だからというわけでもなかろうが、モレッティの落ち着かなさ、居心地の悪さ、そしてその裏返しでもある過剰な自己顕示欲は、国際的名匠のフェデリコ・フェリーニ(1920-1993)を想起させる。 ユーモア、妄想、皮肉さ、憂鬱さ、傲慢さ、我儘さが渾然一体となったシナリオ。人間嫌いを気取る主人公のまわりには、いつも主人公に用事のある者たちがくっついてきて、ぐるりと主人公を取り囲み、何かを要求したり聞き出そうとしたりする。モレッティ映画の主人公も、フェリーニ映画の主人公も、彼らをうるさい連中だと軽視しつつ、適当にあしらって足早に立ち去るのだが、次のカットではまた別の用のある人物が主人公を呼び止め、主人公の大事な会話をさえぎる。 私はもううんざりだ。誰とも話したくないし、放っておいてほしい。早く死にたい。でもみんなが私を放っておいてくれない。何かと用事を持ってくる。鬱陶しいし、引っ叩きたくなる。――しかしながら、この鬱陶しい状況はじつのところ、主人公にとってまんざらでもないものである。 人々が主人公のまわりで品を作り、カメラ前でわざとらしくポーズを取る。フレームの中に押しかけてきて、うるさいセリフをしゃべる。そしてこのインフレーションのすべてが皮肉な形で主人公の分身となっており、もっと明確に言うと、品を作り、ポーズを取る人々の群れは映画作家自身の分裂した姿、複数化した変容体であり、この状況の形成されたフレームそれじたいもまた作家自身の分身である。