「この狼藉こそモレッティだ」映画『チネチッタで会いましょう』が描く“居心地の悪さ”とは? 考察&評価レビュー
偽の楽天主義の裏に隠された絶望と恐怖
モレッティ映画にメランコリックな時間が流れはじめ、虚脱・喪失感・自己激励のあいだでの揺れ動きが支配的となる事態は、『親愛なる日記』(1994)と『ナンニ・モレッティのエイプリル』(1998)以降に顕著となり、『息子の部屋』(2001)にいたってメランコリックな時空間の演出は頂点に達したと言っていい。 これらの中期作品あたりから、他者との軋轢、自己の精神的苦悩ばかりでなく、30代半ばに始まった癌の闘病生活が、作品に大きく濃い影を落とすことになる。 喪失、破局、闘病、不眠、憂鬱、そしてイタリアにおける左翼陣営の退潮はナンニ・モレッティを深く傷つけ、今回の新作『チネチッタで会いましょう』にはタナトス(=死の欲動)さえ言外でほのめかされている。 一見するとラストの大団円は、死を前にした巨匠が最後に映画芸術への祝祭的オマージュを捧げているように思える。しかし見誤ってはならないのは、主人公の傍若無人さ、周囲への暴挙、モラルハラスメントに対する赦免と允許(いんきょ)として、この無根拠な祝祭がしつらえられたわけでは断じてないことである。 本作におけるイタリア共産党をめぐるじつに楽天的な決着方法については、ここでは詳述しないことにするが、すべてデタラメである。ホラ吹きたちのパレードである。ここにはいかなる赦しも反撃も存在しない。 本作のイタリア語の原題『Il sol dell'avvenire(未来の太陽)』とは、絶望の灰色をかりそめの朱色で塗りつぶしただけの、無駄遣いの応急処置にすぎない。オープニングシーンで落書き集団が夜陰に乗じ、川の岸壁にペンキでタイトル字幕がわりに「Il sol dell'avvenire」と書いて、そそくさとずらかる。「未来の太陽」という符牒は応急処置であり、壁の落書きであり、「たられば」の希望なのである。本作のモレッティを、老いから来る無神経さの権化として批判することはたやすい。しかし筆者は、この偽の楽天主義に、逃れることのできない厚い牢獄を、払拭することのできない深い絶望を、愛する人から見放される恐怖を、見て取っている。 2024年10月、ナンニ・モレッティは心臓発作で入院したのち、持ち直して退院したことを発表した※。ホジキンリンパ腫(白血球の中のリンパ球が癌化する悪性リンパ腫)に罹患していることをすでに公表しており、容態は予断を許さないが、寛解して、さらに映画を作り続けてもらいたい。 【著者プロフィール:荻野洋一】 映画評論家/番組等の構成演出。早稲田大学政経学部卒。映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」で評論デビュー。「キネマ旬報」「リアルサウンド」「現代ビジネス」「NOBODY」「boid マガジン」「映画芸術」などの媒体で映画評を寄稿する。7月末に初の単著『ばらばらとなりし花びらの欠片に捧ぐ』(リトルモア刊)を上梓。この本はなんと600ページ超の大冊となった。
荻野洋一