安定を捨て挑戦を選んだ元「東大卒Jリーガー」 添田隆司・おこしやす京都AC社長の冒険 一聞百見
「スーパースターの存在も必要だが、身近で関わることができるローカルヒーローのような存在も地域には求められている」。名は知られていなくても近い距離で接することで子供たちに目標や喜びを与えられる存在になれる。子供たちの笑顔に「地域スポーツの役割」を確信した。
こうした選手時代の経験は若手選手と向き合う立場となった今、実感をもって伝えることができるという。
大手商社への内定を辞退し、自らの意志で挑戦したJリーガーへの道。選手として目立った結果は出せなかったが、下した決断に悔いはない。「あの挑戦があったからこそ、今もさまざまなことに挑戦できている。いい決断をした」
29年、サッカー選手としての生活に区切りをつけ引退。翌30年、名前を変えたおこしやす京都ACの社長に就任した。「チームを上げていく(昇格させる)ことにJリーグでの経験を使いたい」。当時25歳の若さで新たなステージに挑む決断をした。
■「サッカー経済圏」で恩返し
新たに歩み始めたおこしやす京都ACの社長としての道。添田さんは「イメージが全くない中でのスタートでした」と手探りでの始動を振り返る。
忘れられない試合がある。29年、おこしやす京都ACの前身チームに移籍し、選手としてプレーした最後のシーズン。あと1勝でJFL昇格を逃し、「これまでの経験を今度はチームの昇格に使いたい」と誓った。選手を続ける道もあったが、裏方としてチームを支えることが最大の貢献だと考えた。
選手がチームの社長となる例は少なくない。「ミスターセレッソ」と称され、日本代表として活躍し、セレッソ大阪(J1)を社長として率いる森島寛晃氏らが著名だ。そうした存在と比べ、アマチュア契約だった添田氏。「選手としての経歴は圧倒的に違うが、サッカーという事業の可能性を選手目線でも体感できた」との手応えは大きかったという。
おこしやす京都ACはチームのビジョンに「サッカー経済圏」を据える。サッカーの場を飛び越え、地域社会で人の交流の中心となることを目指している。クラブの活動から生まれるスポンサーや地域の人とのつながりをクラブを媒介して、さらに広げ、日常生活で接点のない人々との出会いを生む。