「最終面接直前に『バイトがあるから』と辞退を希望した小嶋陽菜」「高校を中退して上京した大分の女の子」「前田敦子を見出した夏まゆみ先生」…元AKB48支配人が振り返る「一期生オーディション」秘話
2005年、秋元康氏のプロデュースにより「会いに行けるアイドル」をコンセプトとして誕生したAKB48。大規模な握手会、選抜総選挙など画期的な手法で一時代を築いたこの国民的アイドルグループの黎明期から最前線で戦い続けた男がいた。元AKB48劇場支配人・戸賀崎智信氏が初めて明かす、激動と奮闘の記録。 【画像】当時、ナンバーワン嬢だった女性とキャバクラのボーイ時代の戸賀崎氏 前編記事「「秋元康をここに連れてこい」…「ドン・キホーテ秋葉原店8階」が「AKB48劇場」になるまでの舞台裏 元AKB48劇場支配人の告白」から続く
胃がキリキリする毎日
「秋葉原48プロジェクト」の一期生募集を開始したのは、まだ肝心の劇場の場所すら決まっていない2005年8月だった。まるで綱渡りのような状況に、当時毎日のように胃がキリキリしていたのを思い出す。 告知方法は主に3つ。「ブログ」、「駅貼りポスター」、そして「雑誌広告」だ。 いまでこそ影響力の低下が否めないブログだが、2005年当時は間違いなくいちばん勢いのあるメディアだった。そのきっかけを作ったのは、2004年に誕生したアメブロ。特に、タレントの若槻千夏の「マーボー豆腐は飲み物です」というブログの人気は凄まじかった。 のちにファンから“トガブロ”と呼ばれる「AKB48オフィシャルブログ」も、こうした時流のなかで開設したものだ。管理人である僕がプロジェクトの裏側を紹介しつつ、メンバー集めの告知にも使っていた。しかし一期生募集の頃は、当然AKBのことは誰も知らない。 そこで、それなりの予算を割いて実施したのが、原宿駅構内の駅貼りポスターと当時存在した『Audition』という雑誌への広告出向だった。 「秋葉原48プロジェクト始動!」という馬鹿デカい文字の下に、「君に会いたい」というタイトルで秋元先生からの短いメッセージを添えた。以下全文だ。 ―― 秋葉原にはエネルギーがある。 僕は、この土地で新しいアイドルを誕生させたいと思った。 コンセプトは、“会いにいけるアイドル”。 テレビや雑誌のグラビアで見るだけの遠いアイドルではなく、秋葉原へ行けば会えるアイドルを作ろうと思う。劇場を発信基地にして、ショータイムを繰り返し、その中から、次々にデビューさせる予定だ。 個性的な君に会いたい。秋元 康 ―― 応募資格があったのは、13~22歳までの女の子たち。書類選考、面接オーディション、最終面接の3つを通過すると、ダンスレッスンが始まるという流れだった。
【関連記事】
- 【もっと読む】悠仁さまの「筑附」で落ちこぼれ、20歳で親から勘当→池袋のキャバクラの黒服に…元AKB48劇場支配人が告白する「激動の半生」
- 「1年目で年収1000万円」の「キャバクラの黒服」で才能が爆発…元AKB48劇場支配人が明かす「指名が絶えない嬢」と「売れるアイドル」の共通点
- 「秋元康をここに連れてこい」…「ドン・キホーテ秋葉原店8階」が「AKB48劇場」になるまでの舞台裏 元AKB48劇場支配人が語る
- ネット掲示板で「ブスまとめ」に取り上げられ…「元SKE48」が明かす、知られざる「オーディション」の裏側
- 秋元康との出会いは「ケンカ」だった…「Everyday、カチューシャ」作曲家が語る、AKB48がミリオンヒットを連発できたワケ