松田優作が「馬場さんを悪く言うヤツは許さん!」と吼えた意外な理由 プロレスラーとマンションの秘話を発掘
200平米を超える立派な部屋
建物から見るプロレス史は面白い。昔の全日本プロレスの合宿所はジャンボ鶴田の所有物件で、設置された公衆電話もそうであった。携帯電話がないのはもちろん、テレホンカードも存在しない時代ゆえ、公衆電話は新弟子たちに頻繁に利用されていた。当時、全日本所属だった冬木弘道は「お金がすぐ満杯になるので、よく鶴田さんが管理しに来ていた」と振り返っている。 新日本プロレスの道場兼合宿所は、元は猪木の自宅だったが、その前は演歌歌手の畠山みどり邸。変わったところでは、猪木がオーナーを務めていたブラジル料理店「アントンリブ」本店は、元は俳優、田宮二郎の小料理屋「つくね」だった。猪木は1978年12月27日、翌年2月のオープンにあたり、神主を呼んでお祓いをしてもらったが、翌日、田宮の訃報が飛び込んできたので、「心底驚いた」という。他、力道山は自身の所有する「リキ・マンション」に、のちの首相となる中曽根康弘を住まわせていた。力道山は中曽根の提唱する「首相公選制」(議員でなく国民が首相を選ぶ制度)にいたく共鳴していたため、というのが理由だった。また、中曽根を住まわせていたのは、力道山の政界進出に向けた準備だったという説もある。 筆者は、渋谷区に現存する馬場が住んでいたマンションを取材で見学させてもらったことがある。その部屋は200平米を超える立派な広さだったが、意外なことに天井が低く驚いた。現在では築40年以上の物件で、取材に同行した不動産関係者によれば「そもそも天井の高いマンションという考え方がなかった時代」だったという。元全日本の関係者によれば「馬場さんは1階がそのまま駐車場なことを気に入ってましたね」とのことだった。 さて、その同じマンションに一時期住んでいたのが、松田優作。松田優作は大の猪木ファンと聞いたことがあるが(ドラマで共演した賠償美津子に猪木ファンと伝えたという事実がある)、同時にこんな発言も残っている。 「馬場さんを悪く言うヤツは許さん! だって、同じマンションだからな!」(『悶絶! プロレス秘宝館 vol・3』より)。 その松田優作は、1989年に鬼籍に入る約1年前、プロレス会場にいる姿がテレビカメラに捉えられている。第二次UWFを取り上げたノンフィクション番組「地球発19時」(TBS)で、1988年8月13日の有明コロシアム大会の会場だった。 猪木、馬場に続いて、当時新進のUWFにも興味を持っていた松田優作。もし存命なら、闘魂三銃士や四天王プロレスをどう観ただろう、と思いは尽きない。