明治期のスカイツリー、浅草「凌雲閣」 経営危機を救ったアイドル総選挙
「東京百美人」と凌雲閣の最期
言うまでもなく、凌雲閣は現存していない。鳴り物入りで開業したこの塔は、一体どのようにして消えてしまったのだろうか。その結論の前に、もう少しだけこの高層建築物の「人生」を眺めたい。 凌雲閣は、公的な施設ではない。徹頭徹尾、民間の商業施設である。施主の代表は、長岡出身の福原庄七という生糸貿易商だった。なお、設計者は英国出身のお雇い外国人、ウィリアム・バルトンである。 開業から初めての日曜日、凌雲閣には約6000人が詰め掛けたとされ、その注目度の高さが窺われる。しかし、人の心とは実に移ろいやすいもの。エレベーターの故障、撤去の影響もあってのことだろう、開業半年後には1日の来場者数は約300人にまで落ち込んだ。 この危機から脱するべく企画されたのが、今もよく取り上げられる「東京百美人」なる日本初の美人コンテストである。これは、東京中から選ばれた100人の芸妓(げいぎ)の写真を凌雲閣の館内に掲示し、入場者の投票によって順位を決めるというものだった。もし、自分が贔屓にしている芸妓がエントリーされていれば、凌雲閣に投票に行かざるをえない。こうして1891(明治24)年7月15日、過酷な美人コンテストの幕が切って落とされたのだった。 このコンテストの特筆すべき点は、投票が1人あたり1票ではなかったことである。票数は、「登覧券(入場券)」の購入枚数によって決まった。だから、自分のお気に入りを勝たせたい男性は、懐の許す限りの票数を投じたのである。この点から見ても、現在の某アイドルグループの総選挙と極めてよく似ている。 当時の凌雲閣の運営者は、実に頭が切れた。まず、このコンテスト開催期間中、入場料を6銭(現在の1200円程度)に引き下げた。結果、開催後の3日間は、各日2500人以上の人々が詰め掛けたという。そして、コンテストの人気が高いことが判明すると、当初30日間だったコンテストの期間を、更に30日延ばしたのである。 結果として、1位に輝いたのは新橋玉川屋の玉菊という芸妓だった。ここに示すのが、その玉菊の写真である。