「芸術は高尚であるべき」という常識に反抗した日本人がいた…柳宗悦がたどり着いた「民芸」という答え
明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。 【画像】日本でもっとも有名な哲学者がたどり着いた「圧巻の視点」 ※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。
「美術家」と「職人」
明治期の思想家、岡倉天心は「美術家の覚悟」という講演のなかで「凡庸の職工人たるに至りては、何等の点にか特殊の尊敬を払うべき」と主張していた。天心は「美術家」と「職人」、あるいは「工人」とをはっきりと区別し、「工人」を「米櫃のために制作をする人」として、はっきりとおとしめる言い方をしている。 しかし「工人」、あるいは工人が作り出す「工芸」は低い価値しか持たないのかというのは、深く考える必要のある問いであろう。たしかに「芸術のための芸術」、つまり他の目的のために作りだされる芸術ではなく、純粋に芸術的・創造的意欲から生みだされる芸術にこそ価値があるという考え方もある。そこには一理あるが、しかし生活のなかにある工芸のなかにもまた美が存在するのではないだろうか。 そのことをとくに主張した人に柳宗悦がいる。柳は名もなき職人が作り、民衆がその日々の暮らしのなかで用いている器や家具、織物の美に注目し、「民衆的工芸」、つまり「民芸」の価値を再認識し、手仕事の文化を守り育てる運動、いわゆる「民芸運動」をリードした人として知られる。その代表的な著作の一つである『工藝文化』(一九四二年)のなかで柳は、美術を上に置き、工芸を下に置くような見方に、明確な反対の声を挙げている。 『工藝文化』のなかでも言われているが、絵画や彫刻はもともと生活と密接に結びついたものであった──「生活」のなかには衣食住だけでなく、宗教に裏打ちされた生活をも含めて考えてよいであろう──。そこでは作り手の創意ということよりも、生活上の必要性の方が、より大きな意味をもっていた。そういう意味で、もともとはすべての絵画や彫刻が工芸性を有していたと言ってもよい。つまり「美術」というもの、言いかえれば、見るためだけに描かれた絵や、見るためだけに刻まれた仏像というものはなかったのである。 近世における個人の自覚──柳は「我の自覚」という言い方をしている──を経て、はじめて「美術」が生まれたと言うことができる。個人の創意(creativity)に基づいて、あるいは画家自身の個性を表現するために絵を描くということがなされたのである。