「芸術は高尚であるべき」という常識に反抗した日本人がいた…柳宗悦がたどり着いた「民芸」という答え
「美の大道」とは
そのように見るために描かれ、刻まれるということ、言いかえれば創作が自律的(autonomous)なものになるとともに、美術と工芸とが分離したのである。そして美のためにという「純粋性」の故に、美術が上位におかれ、生活のためにという「不純性」の故に、工芸の方は下位に置かれた。 それに対して柳は、生活と結びついた美は、ほんとうにおとしめられるべきものであろうかという問い直しを行ったのである。 そういう問い直しの根底にあったのは、柳の独自の美の理解であった。それを柳はこの著作において「無事の美」と表現している。この表現は禅からとられたものである。たとえば『臨済録』において「無事はこれ貴人、ただし造作することなかれ」という表現がある。無事の境地にすむ人こそ貴いのであり、強いて事を作為するようなことをしてはならない、という意味であるが、このようなことばを踏まえて「無事の美」ということが言われている。 近世、あるいは近代における個人の自覚に基づいた天才の芸術においては、個性的なもの、卓越したもの、非凡なもの、日常性を超えたものが価値のあるものとされた。言いかえれば、強烈なもの、刺激の強いものが美とされた。そういったものをあえて作りだすところに芸術の意義が見いだされたと言うことができる。 それに対して柳は、本当の意味で人間を幸福にするものは、そのような偉大な美ではなく、生活のなかに現れる「尋常の美」ではないのか、ということを主張したのである。もちろん柳も天才の偉大な美を否定しようとしたわけではない。そうではなく、それとともに、「個人の泉からは発しない美」というものがあるのではないか、ということを言おうとしたと考えられる。 偉大な天才的芸術家が生みだす美は、道にたとえれば、凡人が決して歩むことのできない険阻な道である。それに対して、工芸品がもつ美は、誰でも行くことのできる平坦な道である。もちろんそれなりのものを作り出すためには修業が求められるが、しかし、修業さえ積めば、天才でなくてもその美を生みだすことができる。そういう観点から言うと、天才が歩む険阻な道は、むしろ「傍系の道」であって、工芸品の美の方が、「美の大道」なのではないか、ということを柳は主張しようとしたのである。 さらに連載記事〈日本でもっとも有名な哲学者はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺るがす「圧巻の視点」〉では、日本哲学のことをより深く知るための重要ポイントを紹介しています。
藤田 正勝