大学准教授となった元楽天・西谷尚徳が語るプロ生活一番の思い出と、「野村再生工場」とは
西谷尚徳インタビュー(前編) 西谷尚徳氏は、明治大学時代に日本代表の主将を務めるなど活躍。2004年のドラフトで新規参入することになった楽天から指名を受け、プロの門を叩いた。1年目こそ出場機会に恵まれなかったが、野村克也氏が監督となった06年、一軍初出場を果たし、お立ち台も経験した。西谷氏が現役生活、野村監督との思い出について語る。 【写真】楽天チア「東北ゴールデンエンジェルス」2024年新メンバー9人・フォトギャラリー 【プロのレベルにカルチャーショック】 ── プロを現実のものとして意識したのはいつ頃ですか。 西谷 東京六大学リーグで、1年春につづき4年春に2度目のベストナインを獲得しました。その後、日米大学野球で中田賢一投手(北九州市立大→2004年中日ドラフト2位)、武内晋一選手(早稲田大→2005年ヤクルトドラフト1位/希望枠)らがメンバーにいたなか、全日本の主将に選んでいただきました。プロのスカウトに提出する、いわゆる"調査書"を記入している時、「プロのレベルまで達しているのかな」と実感しました。 ── 2004年のドラフトで楽天から4巡目指名を受けました。ドラフト同期のメンバーは、同じ明治大の一場靖弘さんが1巡目(自由枠)、のちに監督となる平石洋介さん(同志社大→トヨタ自動車)が7巡目でした。 西谷 プロに入って「あきらめる人」「頑張れる人」と、よく表現されます。(入団したチームには)幼い頃から憧れだった大島公一さん(当時38歳)がいましたが、捕球から送球までの一連の流れなどがすごかったです。私は即戦力を期待されて背番号6をいただきましたが、すべての選手のレベルが高すぎて圧倒されました。それでも決してあきらめず、挑戦しつづける思いでずっとやってきましたが、この時ばかりは超えられそうもない高いハードルを目の当たりにし、カルチャーショックを受けました。 ── 球界再編を経て、楽天球団は新設1年目で、施設などの環境が整っていなかったのではないですか。 西谷 プロ1年目は、山形県庁の脇に公務員が研修で利用する会館があって、そこのワンフロアーを新人寮として使用していました。新人にマイカー保有は許されていなく、個人練習したい時は、当時ファームの本拠地であった山形県野球場までスタッフの車で送迎してもらっていました。思い立った時に練習できるようになったのは、2年目に仙台市に移転してからです。
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