【高橋真麻さん(43)】念願のアナウンサーに!でも待っていたのは辛い日々…ストレスで体重が37キロに|STORY
念願の局アナに。でも待っていたのは辛い日々でした
ーーフジテレビの採用試験に見事に合格されて、局アナという夢が叶ったのですね 局のアナウンサーになりたいという夢は叶いました。ただ、入社してから「七光りだ、コネ入社だ、不細工だ」などとすごく言われました。自分ではアナウンサーになるために120%の努力をして、ようやく夢をつかんだと自負していて、自分の力で入社したと思っていましたが、世間からそうは思われていなかったのです。今の私ならテレビのアナウンサーにしてはそんなに可愛くないし、高橋英樹の娘だから忖度で入社したと言われても仕方がないなくらいに思えるのですが(笑)、当時の私はこんなに頑張って入社したのにどうしてこんなに叩かれなくてはいけないの!と思っていました。実際に多くの方に私を認識していただけるようになって「真麻ちゃんってコネだと思っていたけど頑張っているよねとか」「ニュースを読ませたらちゃんと読んでいるよね」と言っていただけるようになるまで5年かかりました。
入社3年目でアナウンサーを辞めたいと思っていました
ーーアナウンサーを辞めたいと思ったことはありましたか? この仕事をやりたい、この番組につきたいと夢いっぱいで入社していたので、最初はそれが叶わないことにすごくストレスを感じていました。特に3,4年目はやりたいと思っていたアナウンサーの仕事がほとんどなくて、アナウンサー室の電話取り、お茶くみ、掃除、新聞取りをやっていました。自分がやりたい仕事ではなくて、「この日空いている女子アナでお願いします」というナレーションやレポーターばかり。組織で働くというのは自分がやりたい仕事をやる場所ではなくて、求められている仕事をやる、与えられた場所でいかに結果を出せるかが大切ということが今ならわかりますが、当時の私は「どうしてこの番組は私ではなくて、あの子なんだろう」「あの子は仕事がたくさんあるのにどうして私にはないんだろう」とひがみとか嫉妬ではなくて、自己嫌悪になって絶望していました。入社4年目くらいの時はストレスで37キロくらいまで痩せてしまって、辛くて辞めようと思ったこともありました。みなさんに私を認識していただいたのはバラエティ番組かもしれません。でも実は在局中の9年間はずっとニュースを読んでいて、それが私の中で「アナウンサー」という核でした。だからあれだけバラエティ番組でどつかれたり、いじられたりしても「私はアナウンサー」という思いがあったからできたのだと思います。今はこの9年間の局アナのキャリアがあるから、フリーアナウンサーになってからも、タレント業もアナウンスメントのお仕事も両方できているのかなと思っています。組織の中にいたから、人間関係の大変さも知ることができました。いい思い出も辛い思い出もありますが、全部が自分の糧になっているので、本当に古巣のフジテレビには感謝しています。