東海大相模・有馬信二監督は「高1の西が丘」で敗れた東北学院に42年越しのリベンジも「うわ~、そうだった!完全に忘れていました(笑)!ビックリです!」
[1.2 選手権3回戦 東北学院高 0-3 東海大相模高 U等々力] 「ああ、そうだ!そうでした!今思い出しました!そうですよね!2回戦の西が丘だ!」 【写真】武藤嘉紀が初めての…ファン歓喜「息子くんそっくり」「親子でイケメン」「めっちゃ可愛い」 シビアな試合を勝ち切って、全国8強を決めたばかりの指揮官の脳裏に、42年前の記憶が一瞬で甦っていく…… 就任14年目で初となる冬の全国大会を戦っている東海大相模高(神奈川)の有馬信二監督は、明るく元気な人だ。東北学院高(宮城)との一戦を制したこの日の試合後も、報道陣の質問に対して、真摯に、ユーモアも交えて、軽快に言葉を重ねていく。 取材エリアを立ち去る最後の最後に、1つだけ尋ねてみた。「もしかして高校1年生の時に、選手権で東北学院と対戦していませんか?」。その質問に対する答えが、冒頭の言葉である。 福岡県生まれの有馬監督は、高校時代の3年間を名門・東海大五高(現・東海大福岡高)で過ごしており、1年時、2年時、3年時とすべてレギュラーとして選手権出場を果たしているという。 有馬監督がまだ高校1年生だった第61回大会(1982年度)。1回戦で上田東高(長野)に勝利を収めた東海大五が、2回戦で対峙したのがなんと東北学院。試合は1-1からもつれ込んだPK戦で東北学院が勝利。この時に記録した選手権ベスト8は彼らの過去最高成績として、今大会の各報道でもしきりに紹介されていた。 「うわ~、そうだった!完全に忘れていました(笑)!ビックリです!」 どうやら本人はすっかりそのことを忘れていたようだが、一度記憶の扉が開くと、当時のディテールが次々と口を衝く。 「2回戦ですよね。西が丘でPK戦で負けました。僕も5番目でPKを蹴りましたよ。僕がPKを外したら負けだったんですけど、それを決めて、相手の5番目のキックを3年生のGKが止めたんですけど、早く動いたということでやり直しになって、決められて、負けました。それで東北学院がベスト8まで行ったんですよね。そうだ!そうだ!」 当時の記録を紐解くと、その一戦が行われたのは1983年1月4日。会場は西が丘サッカー場。1年生の有馬信二もスタメンに名を連ねていた。試合は前半15分に東北学院が先制したものの、後半38分に東海大五が追い付く展開。ベスト8へと進出する権利はPK戦で争われる。 先攻の東海大五は2人目と4人目が失敗。外せば負けという状況で、5人目のキッカーを任されたのは1年生の有馬信二。このキックは見事に成功したが、後攻の東北学院5人目もきっちり沈め、東海大五は2回戦敗退を強いられる。 なお、もちろん記録には「相手の5番目のキックを3年生のGKが止めたんですけど、早く動いたということでやり直しになった」ことまでは書かれていない。まさにその場にいた者だけが知り得る、当事者の貴重な歴史的証言と言っていいだろう。 ひとしきり記憶を呼び起こしたのち、有馬監督がしみじみと口にした言葉が印象深い。「アレって16歳の時ですよね。じゃあ、もう42年経っているんだ!僕もそんな歳なんだなあ。しかも、それを忘れているという(笑)。自分のことはどこかに行っているものですね」。 つまりは『今を生きている』ということだろう。日本体育大卒業後は母校である東海大五のコーチを長年務め、監督も経験。2011年から東海大相模に赴任すると、一から築き上げてきたチームを選手権に出場するまでに育て上げ、山口竜弥(徳島)や中山陸(甲府)、峰田祐哉(山口内定)といったJリーガーも輩出してきた。 35年を超える指導歴の中で、常に目の前の選手と向き合ってきたこの人は、自分の過去を振り返るような日々は送ってきていないはず。それは『42年越しのリベンジ』も、まったく頭の中になかったことが証明しているのではないだろうか。 「そうか、そうか。じゃあ選手に感謝を伝えないといけないですね」。有馬監督はそう笑いながら、ロッカールームに戻っていった。大事なのは42年前の自分より、今目の前にいる選手たち。東海大相模は、実に素敵な指揮官に率いられている。 (取材・文 土屋雅史)