エネルギー小国日本の選択(8)石油危機、エネルギーに対する意識の高まり
戦後初めてのマイナス成長、そして石油備蓄へ
その後も事態を沈静化させようと、石油の供給確保と使用の節減を図る石油需給適正化法と国民生活安定緊急措置法が1973年、矢継ぎ早に制定された。マイカー使用や深夜放送の自粛、広告灯の使用禁止などのほか、1974年に発動された電力使用制限令で大口需要家の消費削減が求められた。象徴的な出来事として銀座や新宿で街灯やネオンサインが消され、東京タワーも消灯した。 製造業をはじめとする石油の需要家や、一般家庭への打撃は深刻で、経済の停滞は必至だった。1973年度に5.1%だった実質経済成長率は翌1974年度に-0.5%に急落し、戦後初めてマイナス成長となった。20年ほど続いた高度経済成長はこの時、終わりを迎えた。 石油を燃料としていた電力業界、ガス業界は1973年度に赤字決算も相次いだ。そのため、電気、ガス料金の約5割値上げに踏み切るなどの緊急措置を取った。 他方、渦中の石油業界は高騰した原油価格を製品の値上げにより転嫁できたことなどから、危機直後の1973年度決算への悪影響は限定的だったという。むしろ、産業全体の活動停滞などによる需要減に伴い、数年後に時間差で経常赤字を計上する企業などが見られた。供給維持に不安を抱える石油元売り各社は、調達交渉や販売先との商談で足元を見られ、苦戦したとの話もある。 無論、大規模な制度変更への対応に追われた。特に、石油の供給途絶を回避するため、備蓄の重要性が強く認識されるようにもなり、政府は1974年に90日備蓄増強計画を策定した。1975年に石油備蓄法が制定され、企業による90日間の備蓄を義務化、1978年には国家備蓄も始まった。
望ましいエネルギーのあり方は
1970年代に起きた2度の石油危機で大きく違ったのは、2度目の対応は冷静だったことだ。1度目の苦い経験で免疫がある程度でき、トイレットペーパーが売り場から消えるような大混乱は防げた。また、企業や家庭による節電や効率性向上も進み、日本の省エネ技術があらためて世界に注目されるようにもなった。石油危機は、多くの日本人がエネルギーの比率や暮らしとの関係を、より真剣に考えるきっかけになったとも言える。 そうした中で1970~1980年以降のエネルギー政策の見直しは、否が応でも石油依存から脱却し、他のエネルギー源の比率を高めようとする動きへとつながっていく。期待されたのが本格的に動き出した原子力発電所だった。 次回は原発反対の声が強まる局面がありながらも、大きな方向性は推進へと向かった経緯を確認していきたい。