エネルギー小国日本の選択(8)石油危機、エネルギーに対する意識の高まり
契機となったのは1959年にメジャーが発表した石油公示価格引き下げ措置だ。これは産油国の了解無しになされたため、猛反発したアラブ諸国は最初のアラブ石油会議を開いて対応を協議した。会議にはアラブではないイランや南米のベネズエラも参加し、産油国同士の結束が強まった。 協調体制が整い、1960年にOPECが発足した。原加盟国はサウジアラビア、イラク、クウェート、イラン、ベネズエラの5カ国だ。現在は13カ国まで加盟国が広がり、世界の石油市場や各国のエネルギー政策に依然、大きな影響を及ぼしている。 またOPECの補完組織として、サウジ、クウェート、リビアが1968年に発足させたアラブ石油輸出国機構(OAPEC)もある。第4次中東戦争はイスラエルの優勢で1カ月とたたずに1973年10月に終わったが、OAPECはイスラエルと友好的な国への供給削減を決定した。OPECも同調したことで、国際石油価格は3カ月ほどで約4倍に跳ね上がった。 日本は1973年12月にOAPECから友好国と認定され、供給削減措置は解除されたものの、石油を取り巻く劇的な環境の変化による打撃は避けようもなかった。
勢いを増すOPECの影響力と中東の混迷
その後もOPECは原油の価格形成に絶大な影響力を誇った。加えて、中東で戦争や政情不安が絶えなかったことも、原油の供給途絶、生産減少のリスクを意識させ、石油価格を不安定にさせる要因となった。 1978年には2度目の石油危機が起きた。発信源はイランだった。高まる反政府デモで石油の生産量が激減し、12月に石油輸出が全面停止となった。その後、1979年2月のイラン革命、1980年に勃発したイラン・イラク戦争と混乱が続く。呼応するように、OPECは1978年末以降、段階的に大幅な石油価格を引き上げた。一連の流れを受け、原油の国際価格は1979年から3年間で3倍近くに高騰した。
見直しを迫られる日本
日本は最初の石油危機に見舞われた1973年当時、エネルギー源の約8割を原油の輸入に依存していた。しかも輸入先の大半を占めたのは中東だった。歴史的な円高や当時の田中角栄首相(1918~1993年)が掲げていた「日本列島改造論」に伴い、「狂乱物価」と呼ばれるインフレ状態でもあり、生活品の値上がり、不足という消費者不安が高まっていた。 そこへ石油危機が重なった。当時の通商産業相が、かねて価格上昇が続いていた紙製品に関し「紙節約の呼びかけ」を発表したことも相まって、トイレットペーパーや洗剤の買い占めなどのパニックが全国で連鎖的に起きた。「原油の輸入が途絶える」との恐怖が国民の頭によぎった。「終戦間もない頃の物資不足を彷彿とさせた」と振り返る人も少なくない。 政府は同年11月に「緊急石油対策推進本部」を設置した。そして「石油緊急対策要綱」に基づき、石油の使用制限、石油製品の価格調整など強力な行政指導が行われた。