時代の境目のキーワードは「異端児」「地方」
5世紀後半に作られた群馬県高崎市の八幡塚古墳 (筆者撮影)
不思議なことなのだが、古来歴史の流れが変わる瞬間、活躍するのは、「異端児」や「地方」であった。 たとえば5世紀後半に現れた第21代雄略天皇は、異端児であった。 ヤマト建国来、大王(天皇)は祭司王で、強大な権力は与えられていなかった。ところが5世紀に入ると、変化が起きる。朝鮮半島北部の騎馬民族国家・高句麗が南下政策を採り始めたため、ヤマト朝廷は軍事介入を始めた。ここに、強く迅速な意志が求められるようになり、この時登場したのが、雄略天皇であった。 そもそも雄略に即位の芽はなかった。けれども、安康天皇暗殺事件の混乱に乗じて、玉座を手に入れた。雄略は複数の皇位継承候補に謀反の嫌疑をかけ、順番に殺していったのだ。当時最大の権勢を誇っていた円大臣(つぶらのおおおみ、葛城氏)をも滅ぼしてしまう。 雄略天皇は、乱暴な性格だったらしい。『日本書紀』によれば、「自分が正しい」という信念から、誤って多くの人々を殺してしまったという。だから人々は「大(はなは)だ悪しくまします天皇なり」と罵った。やはりこの男は、異端児であった。 一方で雄略天皇は強権を発動し、旧態依然としたシステムを一気に潰しにかかった気配がある。 5世紀後半は、旧体制側の豪族たちも衰退し、新たな勢力が勃興する時代でもあった。この流れに乗った雄略天皇は、さしずめ古代版・織田信長といったところか。 次のキーワードは、「地方」だ。 地方からヤマトに乗り込んで改革事業を押し進めたのが、6世紀初頭に彗星の如く現れた第26代継体天皇(男大迹王=おおどのおおきみ=)である。 継体天皇は第15代応神天皇の5世の孫で、近江(滋賀県)で生まれ、越(福井県)で育った。血の論理からみて難のある継体が担ぎ上げられたのは、先帝・武烈天皇が暴虐な君主だったことと、武烈の崩御によって皇統が絶えたためである。 継体天皇の出現は王朝交替だったのではないかとする説が囁かれるが、それよりも重大な問題がふたつある。 まず第1に、5世紀後半の越が、ヤマトを出し抜き、先進の文物を取り入れ、富を蓄えていたことだ。瀬戸内海航路を牛耳る「吉備」が5世紀半ばに没落し、ヤマト朝廷が混乱する中、越が日本海航路を活用し、朝鮮半島との間に太いパイプを構築していたのである。 第2に、「東」の後押しを受けて、継体天皇がヤマトに乗り込んだことである。 即位以前、継体は東海の雄・尾張氏の女人を娶っていた。2人の間に生まれた御子が後に即位し、安閑(あんかん)、宣化(せんか)天皇となる。したがって、3代続く「東国系王朝」となったが、列島を分断する文化圏の東側から新たな王がやってきた事自体、特筆すべき事件なのだった。 東国の蝦夷(えみし)と深くかかわった越の阿倍氏が、このころから頭角を現しているのは、継体天皇とともに越から中央政界に乗り込んだからだろう。蘇我氏の勃興もほぼ同時で、この一族も、東国とは浅からぬ因縁でつながっている。 古代東国の実力は、これまで軽視されてきた。5世紀後半以降、畿内を除いた日本列島で、巨大な前方後円墳を造営しつづけたのは、関東であった。関東は新興勢力であり、日本海ルートの恩恵を受けていたのだ。日本海(越)→信濃川→碓氷峠→関東とつながる流通ルートは、弥生時代、すでに確立されていた。
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関裕二