「ウクライナ侵略を考える~『大国』の視線を超えて」著者、加藤直樹氏に聞く(2) 日本の平和運動の無自覚な「大国主義」
「侵略」というテーマは、日本の平和主義・反戦運動にとって、非常に弱い部分だと思っています。以前から、「すべての戦争は悪だ」といった言説には、日本がかつて行った戦争が、戦争一般ではなく、侵略戦争だったという事実を見ないようにする無意識が働いているのではないかと思ってきました。多くの人が指摘していることですが、日本の平和主義は空襲経験などから来る被害者意識から発していて、侵略を行ったという加害者意識が少ない。 それは、言い換えれば、日本の侵略に抵抗した国やその人びとのことをまじめに考えてこなかったとも言えます。例えば日中戦争で言えば、中国の人びとはゲリラとなって日本軍を襲ったり、あるいは国民党政府の軍隊に入って侵略軍である日本兵に銃を向けました。彼らの行動を、日本が行った戦争と同列に「戦争」として「反対」の対象にしていいのでしょうか。
もちろん、抵抗戦争であっても戦争は人殺しです。軍隊は国家の戦争機械です。しかし、侵略されている側は、それを強いられているのです。侵略とは暴力支配の企てです。その侵略の暴力と抵抗の暴力を同列に見ることは、侵略を肯定することです。 ウクライナの民主的左翼グループ「社会運動」の活動家タラス・ビロウスは、現在、領土防衛隊で従軍していますが、こう言っています。 「ウクライナで暮らすわれわれ以上にこの戦争の終わりを熱望している者は誰もいない。しかしウクライナ人には、まさにこの戦争がどのように終わることになるのかも、また重要なのだ」 ビロウスは、占領地でロシアによる拉致や拷問が横行していることを指摘しています。実際、ブチャで起きたような虐殺や拷問は他の地域でも報告されているし、ロシア化教育の強要や、組織的な子どもの連れ去りも問題になっています。 抵抗戦争を続ければ、戦闘や空襲で多くの人が死に続ける。一方、現在の占領地を容認して「停戦」すれば、占領地での人権侵害が続く。 抗戦の継続か、占領の容認か。いずれを選んでも誰かの血が流れる。そこにはジレンマがあります。当事者にしか選択できないことであり、第三者が「こうすべき」などと言えることではありません。ましてや、このジレンマにともなう痛みを理解しようともしない傲慢な第三者に、口を出す資格はないでしょう。