松本清張、社会派ミステリー布石となった時代小説 珍しく痛快な結末も
小説家の松本清張は、社会が生み出した「悪」の問題に小説を通して、訴え続けてきました。虐げられていた主人公が復讐を遂げるタイプの清張作品の多くがたどる結末は、主人公がそのまま平然と生きのびたり、幸せになったりすることは許されていません。しかし、時代小説の短編連作として発表された『無宿人別帳』は、清張らしからぬスカッとする結末が用意されています。社会派ミステリー作家への布石ともいえるこの異色作について、ノートルダム清心女子大学文学部教授の綾目広治さんが解説します。
『無宿人別帳』という短編連作時代小説
『無宿人別帳』は、1957(昭和32)年9月から約1年にわたって「オール読物」に連載された。連載時には12編の短編連作の時代小説であったが、翌1959(昭和33)年に新潮社から単行本として出版されたときには、2つの話が繋げられて1つの話になったものもあって、計10編の短編時代小説集となった。一般には推理小説家としての声名が高い松本清張であるが、時代小説家あるいは歴史小説家としても並々ならぬ実力の持ち主であった。そのことは『無宿人別帳』からも窺われる。この小説集には社会に対する清張の姿勢や、また後の小説にはあまり見られない要素もあって興味深い小説集となっている。 ここでは2つの作品を紹介したいが、その前に無宿人について述べておきたい。無宿人とは、江戸時代の戸籍と言える人別帳(にんべつちょう)から除かれた者のことである。だから、「無宿人別帳」とは本来ならばあり得ない、矛盾する名称である。彼ら無宿人のほとんどは、犯罪履歴のある者や、田舎では生活できず故郷を出奔した者など、社会の最底辺で生きざるを得ない者たちであった。彼らは非人になることさえ、非人頭に拒絶されてできなかったのである。清張はそのような無宿人たちに同情も寄せつつ、史実をしっかりと踏まえた上で物語を語っている。
清張作品では珍しい真の悪が報いを受ける結末
第7話の「流人騒ぎ」は次のような話である。 ――忠五郎は賭場で人を傷つけて島送りになった。彼の罪は微罪でもあり、また将軍家の仏事に伴う大赦(たいしゃ)もあったのだが、赦免者名簿を作成していた役人のいい加減な仕事のために、忠五郎は赦免のリストから漏れていた。どうしても帰りたい忠五郎は、島抜けの計画を持ちかけた軍蔵の話に乗る。しかし、事前に計画が発覚し、島抜け希望者はほとんどが捕まり、また自害する者もいた。その中で軍蔵と忠五郎、そして女犯僧の覚明(かくみょう)だけが脱出できたのが、覚明は喉が猛烈に渇く酒を軍蔵に飲ませて苦しめる。覚明は軍蔵を指差しながら、忠五郎に言う、「この男だ。仲間を売って訴人(そにん)したのは」―。 物語の最後になって悪辣な男である軍蔵が痛い目を見るわけで、読者は少し溜飲が下がる思いがするであろう。このように悪が報いを受けて読者が痛快な思いをする小説というのは、清張小説にあっては珍しい。また、覚明の人物像も清張小説では珍しいと言える。彼は島の女を伴侶にしてそれなりに島の暮らしに自足していたのであるが、「だが、みんなの助けなら、わしも合力しよう」と、止むなくという感じで計画に参加するのである。覚明のように言わば〈足を知る〉人間で、自分の欲求を抑えてでも仲間のために義理を果たそうとし、またクールでもある人物は、清張小説では例外的な存在である。多くの清張小説ではそれとは逆に、自分の欲望に熱いまでに執着する人物が登場するのである。