「女の子だから」父に褒めてもらえず…“困難な環境”で育った女性画家が強い劣等感を克服するまで
「芸術の才能がある」と自負していた父は…
絵の道を選んだ大河原氏は、母親の目にはどのように映ったのか。 「高校は美術科へ進学しました。他の生徒との展示会を見せたあと、母から『あなたは才能がない』と言われて。当時は自分でもそう思いました。目の前のものをデッサンしろと言われたら得意でしたが、自由に描くように言われても、本当に何を描いていいか自分でもわからなくて苦しかったんです。自分にしかできない表現はなんなのかと、いつも模索していました。美大に入学してからも思うように描けなくて、何度も絵をやめようかと考えました」 家族との関係性が画家としての姿勢や作風に与えた影響は大きい。 「父はいつも『自分には芸術の才能があるんだ。もっと時間があれば、退職したら素晴らしい作品が作れるんだ』と言いながら、リビングに置かれた3台ものテレビを見続けていました。そんな父の姿を見て育ったので、『何かをしなければ』と焦りを感じ、絵に打ち込む原動力にもなりました」
「描けなければ生きる価値はない」と思った
どう人と接したらいいのかもわからず、何が『普通』かもわからない――。一時期のそんな心理状態が、大河原氏を絵に向かわせた側面もある。 「人前ではちゃんと『普通』でいなければと気を使いすぎて疲れきってしまい、その影響で一人で絵を描くことにより打ち込んでいった面もあります。当時は『私には絵しかない。こんな自分は、せめて絵でも描けなければ生きる価値はないんだ』と思うくらいに追い込まれていました。 絵を描くようになってから思うのは、絵を認めてくれる人がいたから、心の闇に飲み込まれずに済んだということです。私の絵を見てくれる人たちの言葉に救われてきたから、描き続けることができ、画家になれました。感謝しかありません」
あの父がいたから「画家になれた」
理由が何であれ、生きづらさを感じている人は多い。大河原氏は、芸術に出会えたことによって、その生きづらさが少し緩和されたと話す。 「本当は、勉強だけでなく絵も頑張ったら、いつか父が兄ではなく自分を認めてくれるんじゃないかってどこかで期待していたんだと思います。ただ親から無条件に愛されたかったのに、それが得られなかったから、心の穴を埋めるために12歳からずっと絵を描き続けているんだとも思います。でも創作活動は、誰よりも心の傷を補填してくれました。絵があったから人に依存することもなく、ただ色やフォルムに夢中になれた。だから創作は、芸術は、素晴らしいと私は思っています」 芸術への向き合い方がみえてくると同時に、大河原氏はより深い自らの内面とも向きあうようになる。 「私が人間の絵を描くとき、顔でも体でも、どこかのパーツが必ず欠損しています。いったん全部顔や体を描いても、すべて描くと気持ちが落ち着かなくて消してしまうんです。きっとどこか、無意識に、何かが欠けた自分を絵に反映させているんだと思います。 どんなに努力しても、親からの無条件の承認を手に入れられなかったけれど、実はあの父がいたから、がんばり続けられた。あの父がいたから画家になれたんだと、思えるようになったんです。 自分も困難な環境で育ち、たくさん傷ついてきたからこそ、得られた力や学びもあったと今は思える。自分が傷ついた分だけその感情を周囲への優しさや共感へと変えようというのが私自身のテーマです。そこからつけた絵のタイトルを、『鼓膜に残る静寂を優しさに変えるすべについて』としています」