【プレイバック’04】土砂崩れと倒壊した家々…被災者の生死を分けた瞬間とは ルポ「新潟中越地震」
10年前、20年前、30年前に『FRIDAY』は何を報じていたのか。当時話題になったトピックをいまふたたび振り返る【プレイバック・フライデー】。今回は20年前の’04年11月19日号掲載の『新潟中越地震 密着フォトルポ「激震」「避難生活」被災者の生と死を分けた瞬間』を紹介する。 【画像】凄惨な光景が広がる…震度7の巨大地震と土石流に見舞われた「民家の内部」写真 ’04年10月23日午後5時56分、新潟県北魚沼郡川口町(現・長岡市)直下を震源としたM6.8、震度7の地震が中越地方を襲った。震度7を記録した地震は1995年1月の阪神大震災以来だった。余震が続く被災地での避難生活を追った密着ルポだ(以下《 》内の記述は過去記事より引用)。 ◆震度7の被災現場を歩いた 当時の被災地の様子を、以下のように振り返っている。 《見渡すかぎりに広がる激しい土砂崩れの跡。何十mにもわたって崩落した道路。全滅した鯉の生け簀。本誌取材班は地震発生以降、甚大な被害を出した山古志村(現・長岡市)や川口町などの各地を歩き、凄絶な光景を目にしてきた。 10月26日以降、被災地は何度か雨に襲われている。そして、雨は被災者だけでなく、山々をも傷つける。大規模な土砂崩れによって塞き止められた雨水は天然のダムとなり、幾つかの集落が水没。決壊すれば、土石流が跡形もなく下流の村を壊滅させるだろう。》 取材当時の11月2日時点での死者は37人。長岡市妙見町で起きた土砂崩れでは母子3人が乗った車が土砂に飲み込まれ、母娘が死亡。当時2歳だった男の子だけが92時間後に奇跡的に救出された。2日には母娘の葬儀が執り行われたが、3歳の女児の遺体はまだ現場に残されたままだった。また、川口町で亡くなったMさん(享年78)の遺族は避難生活を送っていた倉庫に遺影を安置して暮らしていた。 《「私たちはちょうど旅行に行っていて、地震が起きたと知ってすぐに戻ってきました。夜中の2時に着いたら近くの人にうちのおじいちゃんが亡くなったと聞いたんです。急いで家に帰ったら1階が潰れていて、2階建ての家が平屋のようになっていました」》 地震直後の死者はほとんどが建物の倒壊によるものだ。新潟中越地震による被害は取材時点で全壊374棟、半壊683棟に上っていた(後の消防庁による確定報では全壊3174棟、半壊1万3810棟)。被災者の生死を分けたものは何だったのか。小千谷市でも小学生3人が建物の崩壊により圧死している。 《「亡くなった女の子はお風呂に入っているときに地震が起きたから、おばあさんが服を着て早く出ておいでって言ったらしいです。ハ~イって返事が聞こえたけど、すぐに強い余震がきて家の梁が崩れた。それが首に当たったみたいで、その後は返事がなくなったそうです。村の人たちが必死に捜し出して、人工呼吸をしたけどダメだったんです」(近所の住民) 被災者の話を聞くと本震よりもむしろ相次ぐ強い余震に耐え切れず、倒壊した家屋が多いようだ。本震から4日後に起きた震度6弱の余震で、自宅が倒壊する瞬間を目撃した被災者もいた。》 ’03年7月の宮城県北部地震でも、発生同日に震度6強の余震が2度襲っている。地震発生直後に家屋の外に避難することで、生き延びられる可能性は高くなるといえそうだ。 ◆赤い調査書が貼られた家屋があちこちに… 震度7を観測した川口町を歩くと、倒壊していなくても「危険」と指定された赤い調査書が貼り付けられた家屋があちこちに見られた。住民の多くが町の数ヵ所に立ち並ぶテントで避難生活を送っていた。 《「道で会えば挨拶をしたり、立ち話をすることはありましたが、朝から晩まで一緒に暮らすのは不思議な感じだねぇ」 倒壊した自宅の前で被災者の老婦人はこう語った。彼女はテントの中に閉じこもっていると気が滅入るため、自宅までの道を一日に2~3回歩いて往復するという。》 ライフラインが復旧すれば、避難所はなくなり、家に戻れない人は仮設住宅に住むこととなった。そんな中で天然のダムが発生して集落が水没したり、土石流発生の危険があったために避難所での生活を強いられていたのは山古志村の村民たちだけではなかった。川口町南部の小高もそんな集落の一つだった。 《「ダムが上流にできて、家に戻れるのはいつになるか分かりません。当分は仮設住宅に住みますが、一度洪水が襲った村に戻る気にはなれないです。周辺の山にも亀裂が入っていて、これからは地震だけじゃなくて雨や雪も怖くなる。土砂崩れの怖さを味わうのはもう十分ですよ」(被災した住民)》 日常を取り戻そうと懸命に前を向く被災者たち。だが、この後も辛い避難生活の日々はまだ続いたのだ。 ◆大きな余震は12月まで続いた 本誌のこの記事が出た後も余震は続いた。前出の、車が土砂にのみ込まれて亡くなった3歳の女の子の遺体がようやく収容され、あらためて自宅でお別れ会が行われた11月8日にも、出棺が終わると同時に激しい揺れが襲った。震度5以上の余震はこの年の12月28日まで起きている。 また、この地震では68名が亡くなったが、うち52名が災害関連死だった。とくに車中避難が長引いたことによるストレスやエコノミークラス症候群が問題となり、この症候群が知られるきっかけとなった。また、この年の新潟県は19年ぶりの豪雪に見舞われたため、地震で被害を受けた建物が積雪で倒壊するという被害も出た。 地震によって全集落が孤立し、約2200人の全村民がヘリで避難した山古志村で「帰村式」が行われたのは’07年10月のことだった。このときまでに地震前の約7割となる1400人が帰村した。 過疎化や高齢化の波にもさらされて、現在の山古志村の人口は1000人を切っているという。だが、伝統の闘牛「牛の角突き」が復活して観光客を集め、地震で大きな被害を受けた錦鯉の養殖も海外のバイヤーが訪れるほどの人気だ。村の人々が復興計画にあたって掲げた「伝統的な山の暮らしの再生」が今に息づいているようだ。
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