産休の時、PUFFYをやめようかと思った――「移動はいつも隣の席」亜美と由美が歩んだ四半世紀
「生まれるという連絡をもらった時、『私が行かずに誰が行く』と思って」。デビュー25周年を迎えたPUFFYの大貫亜美と吉村由美は、「友達であり、ビジネスパートナー」。大貫が吉村の出産に駆けつけるほど、厚い信頼関係で結ばれている。「アジアの純真」「これが私の生きる道」など数々のヒット曲を送り出し、アメリカではPUFFYをモデルにしたアニメが放送されるなど、ポップアイコンとして人気を集めてきた。多忙を極めた20代も、子連れで回ったアメリカツアーも、移動はいつも隣の席。そんな関係を保てるのはなぜだろうか。(文中敬称略/取材・文:田中久勝/撮影:藤原江理奈/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
デビュー当時から、ほとんど喧嘩もしない
吉村「世間的には『2人組は実は仲が悪い』とか言われがちじゃないですか。でも私たちは25年間、仕事で移動する時はいつも席が隣。ここまで一緒にいると、私たちのほうがおかしいのかもって(笑)」 大貫「一緒にいて一番楽。海外旅行へ行きたい人ナンバー1です」 もとは、現在の事務所でそれぞれシンガーとして活動する予定だった。人見知り同士だった2人は、ふとしたきっかけで互いの家を行き来するほど親しくなる。事務所にデビューを打診された大貫が、吉村と一緒にやりたいと提案。そうしてPUFFYが誕生した。1996年、奥田民生プロデュースのもと、作曲は奥田、作詞は井上陽水のシングル「アジアの純真」でデビューし、いきなりミリオンヒットを記録した。
当時から、2人はほとんど喧嘩もしなかったという。 大貫「喧嘩しても次の日仕事だったら会わないといけない。そこはお互い理解があったと思います」 吉村「写真を撮る時、『頬寄せて』って毎回言われて。まだ気持ちが素人だから、嫌いな人とは寄せたくないんですよね。お互いが喧嘩を回避しようとしていました。会社も私たちを『個×2』としてではなく『対』として見ているから、何かある時は2人で話してから会社にぶつける。だから揉めごとすら起きない」 デビューしてすぐに注目され、多忙を極めた。友達が遊んでいるところに参加しようと思っても、仕事が終わる時間が分からない。自然と2人で遊ぶことが多くなった。 吉村「20代前半は友達と遊べないのが寂しかった。休みが合う友達がいないから、亜美ちゃんと遊んだ。今考えると、当時SNSがなくてよかったなと思います。なかったからこそ、自由に遊べたところもある。今の若い人のほうが、いつでもいろんな目があってつらいかもしれない」