自害した増田長盛が示した豊臣家への「忠勤」
■石田三成と並んで信頼された増田長盛 増田長盛(ましたながもり)は、関ヶ原の戦いにおいて西軍として活動したものの、本戦には参加せず家康に謝罪したため、一般的には戦国武将としての評価が低いと思われます。 実際の長盛は実務家として活躍し、上杉家や里見家の取次役といった重要な役割を担うなど、秀吉から重用されています。文禄の役や秀次(ひでつぐ)事件でも重要な役割を担い、慶長の役での大攻勢計画では、石田三成(いしだみつなり)や福島正則(ふくしままさのり)とともに司令官に任命される予定でした。また、要衝の地である大和郡山20万石を拝領するなど、その信頼の厚さが伺えます。 しかし、評価があまり高くないのは、豊臣家を守るために尽力した長盛の「忠勤」が理解されていないからだと思われます。 ■「忠勤」とは? 「忠勤」とは辞書等によると「忠義を尽くして主君、主人に勤めはげむこと」「忠実に勤めること」とされています。忠義には、主君にまごころを尽くして仕えるという意味があるため、「忠勤」には命懸けで仕事をするというイメージがあります。 封建社会で、主君が与える御恩に対する奉公という対価的な意味合いだけでなく、この言葉には精神的なものが含まれているように感じられます。長盛は主家である豊臣家のために「忠勤」に励みます。 ■増田家の事績 増田家は尾張中島郡増田村、もしくは近江国(おうみのくに)浅井郡益田郷の出身と言われていますが、定かではないようです。長盛は三成たちと同時期に、長浜を領していた秀吉に200石で直臣として仕えます。1582年には上杉家との交渉役を担い、小牧長久手(こまきながくて)の戦いの功績により2万石へ加増されています。 1590年の小田原征伐後には、安房の検地に携わり、里見家など関東の諸侯の取次役となっています。文禄の役では朝鮮奉行として、秀次事件では詰問役を任されるなど、秀吉から高い評価を得ていたようです。1595年には、亡くなった豊臣秀保の所領の一部である大和郡山20万石を拝領し、五奉行にも任じられています。 秀吉死後の権力争いにより、浅野長政(あさのながまさ)と石田三成が奉行職から離れると、豊臣家の蔵入り地を担う重要な存在となります。そして、政権内部での抗争が激化する中、長盛は豊臣家のために「忠勤」を尽くします。