1983年『スチュワーデス物語』で爆発的人気! 客室乗務員はどのようにして「おもてなしの達人」になったのか? 戦後の日本を彩った「憧れの職業」の進化とは
エアガール誕生の衝撃的真実
1931(昭和6)年1月23日の新聞各紙には「エアガールの募集」を伝える記事が一斉に掲載されたという。そのなかには、「佳麗なエロ・ガールを同乗せしめ乗客に空中からの名所案内と同時にカクテル、コーヒー等の味覚サービスを行わしめる」と伝えているものもあった。 【画像】「えぇぇぇ!?」 これが1960年代の「客室乗務員」です! 画像で見る(7枚) 今なら夕刊紙でもこんな記事を書くかどうかは微妙だが、この記事は『読売新聞』のもので、「エロ・グロ・ナンセンス」が流行するなか、日本最初の客室乗務員はこのような視線のもとで誕生した。 今回紹介する山口誠『客室乗務員の誕生』(岩波書店)は、そんなエアガールから始まり、スチュワーデス、キャビン・アテンダント(CA)と変化してきた客室乗務員の歴史をたどったものである。日本の客室乗務員が何を期待され、どのように自らを位置づけていったかが、航空業界や社会の変化とともに描かれている。 冒頭で「エロ・ガール」という言葉を紹介したが、エアガールを募集した東京航空輸送社にはそのような考えはなかった。会社が彼女たちに期待したのはカクテルやコーヒーの提供とともに、窓から見える名所や地理を解説する 「機窓案内」 であり、最初に採用された3人はいずれも女学校出身のエリート層の女性だった。しかし、会社側が十分な待遇を用意できなかったこともあり、エアガールの3人は1月ほどで辞職してしまったという。
待遇改善と変化
エアガールが再び注目を集めたのは、戦争がきっかけだった。 1937(昭和12)年、日中戦争が始まると中国大陸への輸送需要が軍民とも急激に増加した。兵士だけでなく、官僚や報道関係者、ビジネスマンなどを運ぶために、東京から福岡を経由して大連や上海などに向かう便などが整備され、それに乗務するエアガールが求められたのだ。 エアガールの待遇もよくなり、彼女たちを「エロ」と見る視線なども愛国心の高まりとともに消え去った。機窓案内の業務は残っていたものの、福岡・上海線になるとほぼ海の上を飛んでいるため、ほとんど説明すべきものがなかったという。 一方、この時期に重要な仕事となったのが 「飛行機に酔ってしまった乗客の介抱」 だった。当時は与圧装置が未発達であり、飛行訓練を受けていない民間人を乗せる旅客機は低い高度で飛んでいた。そのため、天候の影響などにより揺れることが多く、嘔吐(おうと)袋が必須だったという。 しかし、このエアガールも1941年9月、太平洋戦を前にして廃止されてしまう。対外関係の悪化から、航空燃料や機材が枯渇し、エアガールを乗せる余裕はなくなっていたのだ。