1983年『スチュワーデス物語』で爆発的人気! 客室乗務員はどのようにして「おもてなしの達人」になったのか? 戦後の日本を彩った「憧れの職業」の進化とは
スチュワーデス誕生の裏側
戦後、1951(昭和26)年になって日本航空株式会社の発足とともにエアガールの募集がなされた。新聞広告には 「容姿端麗新制高卒以上英会話可能東京在住の方」 という条件はついていたが、約1300人が応募し100倍を超える倍率を記録した。 当時の日本には客室乗務員を育成するノウハウはなく、フィリピン航空からベテランの客室乗務員を招いて研修を行ったが、航空機材がうまく手配できず、飛べない日々がつづいたという。 客室乗務員の呼称については、当初、 ・エアガール ・エアホステス ・スチュワーデス という三つが乱立していた。エアガールは和製英語であり、日本航空も1953年からスチュワーデスという呼称で募集するようになった。 ちなみに、日本航空は1961年にスチュワーデスから欧州で主に使われているホステスという呼称に切り替えようとしたが、すでに日本ではホステスはバーやキャバレーの女給の呼称として定着しており、1966年から再びスチュワーデスに戻している。 1954年、日本航空は羽田・サンフランシスコ便を開設するが、当時、日本人の海外渡航は厳しく制限されており、また、高給の米国人パイロットを使っていたこともあり、国際線は赤字を強いられた。 日本航空はスチュワーデスによるきめ細やかなサービスでライバルに対抗しようとしたが、そこで生み出されたのが 「着物サービス」 だった。客室乗務員たちは離陸後に、制服を脱いで着付けを行い、着物で機内サービスをすることが求められた。揺れる機内の狭いトイレで和装の着付けを独りで短時間に終えるとは曲芸に近いが、この着物サービスは名物となっていった。
ジャンボ導入で激変した業務
1964(昭和39)年に日本人の海外旅行が自由化され、1965年には「ジャルパック」がスタートし、航空需要が飛躍的に伸びていく。B747(通称ジャンボ)の就航も控え、客室乗務員の大量採用も始まった。 この需要に応えるようにスチュワーデス予備校がつくられ、英会話や日本や世界の地理、美容マナー、言葉遣いなどが元スチュワーデスの講師によって教えられた。スチュワーデスは女子の「なりたい職業」でも上位にランクインすることになり、花形の職業として確立していくことになる。 ジャンボの導入は客室乗務員の業務にも変化をもたらした。客席の増加とともに、座席数を埋めるための割引運賃が登場し、航空機を使った“旅行の大衆化”が進むが、乗客の増加により機内サービスの提供はより大変になった。一方で、B747は速度がそれほど出なかったため長時間のフライトとなり、機内サービスはますます重要になっていく。 客室乗務員の数も必要になり、1970年代前半には日本航空が1000人規模の採用を行い、「乗員訓練センター」で集中的に訓練するという形がとられるようになった。ジャンボの導入とともに客室乗務員の仕事には今まで以上に体力が求められるようになっており、1976年の日本航空の採用試験では 「反復横跳び」 などの体力検査が導入されている。 これだけの大量採用の裏には客室乗務員が3年程度で辞めていくという出口の問題もあったが、1974年に日本航空が「未婚条項」、1980年に「出産条項」を撤廃したこともあり(それまで既婚、子持ちの女性はそれぞれ客室乗務員になれなかった)、1980年代初頭には在職年数は5年程度にまで伸びていった。