「特攻なんかやめちゃいなさいよ。ぶつかったら死ぬんだよ」…「特攻反対」を公言する飛曹長が死を覚悟した「特攻隊員」にかけたことば
最後まで命を大切に
会議が終わると、福留中将以下、二航艦の司令部職員は、マニラ南郊のキャビテにある水上機基地に迎えに来る大型飛行艇に乗るため、司令部の洞窟で別盃を交わしてバンバンを去った。 あとに残ることになった門司副官に、福留中将は、 「最後まで命を大切にしなさい。私も前にフィリピンの原住民に捕まったことがあった。最後までがんばりなさい」 と声をかけた。門司は、特攻隊の記録綴りを、福留中将の副官・藤原盛宏主計大尉に渡し、 「これだけは間違いなく内地に届けてくれ」 と頼んだ。藤原は、 「引き受けた。こんなことになってすまんな」 と言って、門司の手を握った。 フィリピンから脱出する搭乗員たちは、1月8日、司令部前に集合することとなり、すでに山ごもりに入っていた彼らは、伝令に呼び戻されてふたたび山を降りてきた。 集まった搭乗員たちには、1週間分の食糧として、踵のない靴下に詰めた米と缶詰が渡され、猪口力平先任参謀から、これから搭乗員はルソン島北部のツゲガラオ基地に移動し、そこから輸送機で台湾行きの輸送機に乗ることが達せられた。輸送指揮官には永仮良行大尉が任命され、出発の順序が決められた。 使えるトラックは5、6台しかない。乗れる者はこれに乗って、ピストン輸送をする計画だったが、結局、ほとんどの搭乗員は徒歩での移動を余儀なくされた。 バンバンからツゲガラオまで、直線距離で300数十キロ、歩く距離はその2倍にはなる。うまくトラックに乗れた者は数日で到着したが、20日間近く歩いた者が少なくない。 角田和男少尉も、徒歩で行軍した搭乗員のうちの1人である。 角田がバンバンを出発するとき、局地戦闘機紫電で編成された第三四一海軍航空隊司令・舟木忠夫中佐が山ごもりの陣地からわざわざ見送りにきた。舟木は、角田が二五二空に属し硫黄島で戦ったときの司令である。三四一空は、クラークに来襲する敵重爆撃機B‐24の邀撃や艦爆隊直掩に出撃を重ねていたが、飛行機のほとんどを失い、舟木は陸戦隊指揮官の1人としてこの地に残ることになったのだ。