「特攻なんかやめちゃいなさいよ。ぶつかったら死ぬんだよ」…「特攻反対」を公言する飛曹長が死を覚悟した「特攻隊員」にかけたことば
今年(2024年)は、太平洋戦争末期の昭和19(1944)年10月25日、初めて敵艦に突入して以降、10ヵ月にわたり多くの若者を死に至らしめた「特攻」が始まってちょうど80年にあたる。世界にも類例を見ない、正規軍による組織的かつ継続的な体当り攻撃はいかに採用され、実行されたのか。その過程を振り返ると、そこには現代社会にも通じる危うい「何か」が浮かび上がってくる。戦後80年、関係者のほとんどが故人となったが、筆者の30年にわたる取材をもとに、日本海軍におけるフィリピン戦線での特攻と当事者たちの思いをシリーズで振り返る。(第2シリーズ第7回) 【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…! 前回記事:<明朝の「特攻」出撃を告げられた「18歳の少年」が、上官から「書け」と言われて書いた「遺書の内容」>
死の覚悟を決める
第二航空艦隊の司令部が転出することに決まったのは、昭和20年1月6日の午前中のことだった。福留繁中将ははじめ、二航艦の航空隊を残したまま脱出することには同意しなかったが、もはや航空戦の継続が不可能なときに、2人の司令長官がいる必要はない。大西瀧治郎中将の説得で、福留は台湾に後退することを決めた。 この日の晩、バンバンの司令部の狭い洞窟に、山にこもる各部隊の指揮官たちが集められた。大西も、門司親徳も、指揮官たちも、このまま陸戦で死ぬのだと覚悟を決めていた。 このときの大西の訓示は、二二一空附(飛行長相当)としてクラークにいた相生高秀少佐(戦後・海上自衛隊自衛艦隊司令官)の手記によると、以下のようなものだった。 〈戦況我に利あらず、もはや航空作戦の続行は不可能となった。この上はクラーク西方山岳地帯に移動し、地上作戦を果敢に実施し、最後の一兵まで戦い抜かん。空と陸との差異はあっても、航空作戦に歴戦の諸君は、不慣れな陸戦においても必ずや航空作戦同様の戦果を挙げうるものと期待する。〉 ただ、飛行機の搭乗員は、養成に時間がかかる上に飛行適性があって、誰でもなれるというものではない。翼を失った搭乗員はクラークに400名以上、ルソン島の各基地を合わせれば500名以上が残っている。大西は、飛行機さえあればふたたび戦力になる搭乗員を陸上戦闘で失うことは忍びないとの判断から、フィリピンから脱出させることを決めた。