朴正煕の「維新」から半世紀後に「親衛クーデター」が起きるとは=韓国
1952年抜粋改憲・1972年維新 歴史上2回起きた親衛クーデター かつて軍人大統領たちも計画していたが 政権内部の「反対」の声で立ち消え 先進国の大韓民国でどうしてクーデターが
「文明の衝突」で有名な米国の政治学者サミュエル・ハンティントンは、クーデターを3つに分類した。軍部が武力を動員して既存の政府を解散させ、新政府を構成する普通のクーデター(変革的クーデター)以外にも、権力者が自身の権力基盤を強化するために軍隊を動員して既存の統治体系を中断させる「親衛クーデター」、不当な権力に反発する大衆の抵抗を軍の武力で制圧する「反大衆クーデター」があるという説明だ。 不幸なことに、韓国現代史には3つのクーデターがすべて存在している。1961年の朴正煕(パク・チョンヒ)少将による5・16と、1979年の全斗煥(チョン・ドゥファン)少将と盧泰愚(ノ・テウ)少将による12・12が一般的なクーデターだったとすれば、1952年の李承晩(イ・スンマン)元大統領の抜粋改憲と1972年の朴正煕元大統領の維新は親衛クーデター、1980年の全斗煥新軍部の5・17は反大衆クーデターに該当する。行政と司法を軍が掌握するために戒厳を発令し、軍を動員して国会を掌握しようとした「12・3内乱事態」もまだ、親衛クーデターの試みに該当する。 権力者が権力をさらに強化するために行う親衛クーデターは、一般のクーデターに比べて成功の可能性が高い。すでに権力と資源を有している側が動くためだ。特にクーデターで政権を奪取した独裁者は、自分のようにクーデターを起こす勢力が存在するのではないかと不安を感じ、権力強化と政権延命に執着し、その結果、親衛クーデターのカードに手を出すことになる。あらゆる官権、金権を動員してもかろうじて金大中(キム・デジュン)候補との競争に勝ち3期目に就いた朴正煕元大統領が、維新を通じて事実上の終身大統領になったのが代表的なケースだ。 朴正煕の親衛クーデター構想はそれ以前にもあった。朴正煕が1961年に5・16軍事クーデターを起こして掲げた革命には、「課題が成就すれば、良心的な政治家に政権を委譲し、軍は本来の任務に復帰する」という条項があった。退陣の約束を守りたくなかった朴正煕元大統領は、クーデターを起こしてから1年も経たずに、親衛クーデターを構想する。 1962年4月頃のある日、現役陸軍大将であり国家再建最高会議議長だった朴正煕は、真夜中に議政府(ウィジョンブ)にいた第8師団長のチェ・ジュジョン将軍を呼び出した。5・16クーデター勢力の一員であり、満州軍官学校の1年後輩だったチェ将軍に、朴正煕は軍政延長の名目を得るために、脚本に沿った親衛クーデターを起こしてほしいという要請的な指示を出した。第8師団が親衛クーデター部隊として出動すれば、抱川(ポチョン)一帯にいる第5師団が出動して鎮圧し、主謀者役を担ったチェ将軍は逮捕されるが、安全に米国に送り、その後復権させるという約束だった。しかし、不確かな約束に命をかけられなかったチェ将軍は悩んだ末に、「これ以上、軍が政治に利用されることがあってはならない」として指示を拒否したという。第8師団参謀長だったペク・ヘンゴル大佐(後のCOEX社長)が回顧録『未完成の成就』で明かした話だ。 朴正煕の指示を拒否したチェ将軍は、大邱(テグ)の第5管区司令官に移され、翌年、朴正煕が咸鏡道(ハムギョンド)の軍の勢力を除去するために起こした反革命事件に関わり、拘束される。 1963年7月には盧泰愚ら陸軍士官学校11期が「共和党の要人40人を排除し、朴正煕議長の政治基盤を固めよう」という親衛クーデターを計画した。年齢差もあまりないにもかかわらず、「革命主体」という理由から高位職を独占したキム・ジョンピル氏など8期生に対する反感や昇進の遅れにともなう人事への不満が、その土台にあった。謀議は事前に発覚し、陸軍本部防諜部隊が調査を始めたが、朴正煕が不問に付したため、なかったことになる(当時主導者の調査を総括し、若い将校らによる『とんでもないこと』だと言ったとされる防諜部隊長が、16年後の12・12の際、新軍部に連行されて拷問を受け、陸軍大将から二等兵に降格され不名誉退役したチョン・スンファ陸軍参謀総長だ)。 全斗煥も親衛クーデターを計画した。1985年の2・12総選挙で鮮明な野党の旗印を掲げて創党し、1カ月もたたずに新民党が旋風を巻き起こしたことがきっかけとなった。これに対し、アン・ピルジュン保安司令官(現在の国軍防諜司令官)は総選挙の翌日、「全斗煥大統領が米国のレーガン大統領を親善訪問する計画や、訪米期間中の親衛クーデターの計画を立てよ」とハン・ヨンウォン監察室長に指示した。親衛クーデターで騒乱が起きれば、これを抑えるとしてチョン大統領が急きょ帰国してクーデターを鎮圧し、これを名目に国会を解散して政権を再創出できないかという話が後に続いた。「単任」と「平和的政権交替」を掲げた全斗煥一党の内心も、権力独占と執権延命だったのだ。 ハン室長は当時、大統領に国会解散権があるのだから、あえて無理をする必要はなく、政治工作を通した野党分裂策がより適切だとする内容の16チョン(234×159ミリ)用紙50枚分の研究案を提出した。アン司令官はチョン・ホヨン陸軍参謀総長やチャン・セドン警護室長と相談した後、報告書の内容は合理的だとする決定を下した。政権の核心レベルで親衛クーデター計画が推進されたわけだ。1996年に行われた12・12事件と5・18事件の検察捜査と裁判を通じて確認された内容だ。 盧泰愚のときも、保安司令部は、親衛クーデターを起こす場合に障害となる反政府の人物の目録を作成し、非常戒厳の宣言後にはただちに検挙するという「清明計画」を立てた。保安司令部が各界の主要人物1300人あまりを個別的に査察し、自宅の位置と逃走予想経路、親戚の自宅など予想される隠れ場所など、詳細な事項を収集していた事実が、1990年9月にユン・ソクヤン二等兵の良心宣言によって一般に知られることになった。 このように、朴正煕、全斗煥、盧泰愚につながる軍人大統領時代、親衛クーデターは何度も計画されたが、実際に実行されたのは維新の1回だけだった。銃刀で国民を脅して政権を握った政治軍人集団の内部にも、意志決定過程に最小限の合理性を備えようとする人たちがいたからだ。軍人大統領が退陣してからすでに30年あまり、経済成長と民主化を成し遂げた先進国と評価される大韓民国で、愚かな親衛クーデターが起きた。市民の抵抗と軍・警察の内部からも支持を得られなかった親衛クーデターを起こした尹錫悦大統領はどうなるのだろうか。参考までに、実際に親衛クーデターを起こした朴正煕は部下の銃弾で死に、計画だけ立てた全斗煥元大統領と盧泰愚元大統領は、囚人服を着て法廷に立たなければならなかった。 最後の軍出身の大統領である盧泰愚が退任し、金泳三(キム・ヨンサム)、金大中(キム・デジュン)、チョン・ジュヨン氏が正面対立した1992年の大統領選挙を前にして、作家のコ・ウォンジョン氏は仮想政治小説を発表した。小説的な虚構という形式を借りたが、軍部勢力の残党と両金分裂、イデオロギー論争と地域主義の跋扈など、混沌とした政治状況を凝縮し、大きな話題となった小説のタイトルは『最後の戒厳令』だった。親衛クーデターという最悪のシナリオを警戒して付けたタイトルだった。コ氏は当時の新聞寄稿で、このように語った。 「いつどこでも、少数の不正は出現可能だ。重要なのは、『善意の多数』がこれにどう反応するかということだ。そんなことが実際に起きるのか起きないのかの可能性を問う前に、韓国社会にそのような不正に対抗できるシステムが備わっているのか、私たち一人ひとり全員がそのような行為に抵抗する心の準備ができているのかを、まず問わねばならない」(1992年10月17日付京郷新聞)。今でも有効な30年前の小説家の苦言だ。 イ・スンヒョク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )