村上春樹『風の歌を聴け』が描く戦後日本の虚無感 「日本的なるもの」の喪失を描いた透明な文学
僕が春樹の小説を何作か読んでみて毎回感じるのは、変なたとえですけど、進学や就職がある4月頃の気分がずっと続いていくというような印象です。生活環境が変わったばかりで、深く噛み合った人間関係がまだないし、宙に浮いたような心地でダラダラと時間が流れていくんだけど、春らしくぽかぽか暖かくて不快ではない、というような。 例えば18、9歳で田舎から東京の大学に出てきて、とりあえずまだすることもはっきりせず、地に足が着いていない時期の若者の感覚みたいなものですが、これって人間が繰り返し経験する気分だよなっていうリアリティがあるんです。だから、そのボーッとした感覚に長く留まってしまうと気持ち悪いんですが、人生に付きもののよくある風景という印象だから、嫌な感じはしないんですよね。
川端:そのこととも関係するんですが、春樹は登場人物一人ひとりの、人間としての全体像を描こうとしないイメージもあります。登場人物たちは盛んに何かを喋ってるんですけど、不思議と、その人物のバックグラウンドを読者に想像させないような力が働いていて、「いま喋っているこのセリフ」だけに注意が取られますよね。 その背景でどんな人生を送ってきたのかというようなことはあまり考えさせないような誘導が行われていて、別に悪い意味じゃないんですけど、個々の人物が持っているであろう多面性や歴史性は犠牲にして、特定の側面だけをいくつも繋いでいく形でストーリーが進んでいく。なんか、会話の部分が多いですけど、いきなり話が飛ぶやつも多いじゃないですか。
柴山:そういう飛び方は、なかなかうまいなと思ったんですけど。 川端:これも一種のリアリティですよね。それから、さっきの自殺した彼女の話にしても、自殺の背景の描き込みは全然なくて、わずか数行で死んだ場面の説明が終わる。人物の全体像がないんです。一人の人間が持っている多面的な可能性を、わざわざまとめたりはせずに、一面だけを繋いだような人間関係が描かれているんですが、確かに現代はそういう社会です。 さっき柴山さんが「都市」とおっしゃいましたが、ジンメルの社会学で都市とは「日々出会う人々の大半が顔見知りではないような空間」であると定義されていたように、都市の生活というのは個々の他人の全体像を考えることがないものですよね。そういう意味での都市的な空間の雰囲気が正確に描かれていて、なんか「分かる分かる」って思うのが春樹の小説です。