小林一三の夢 阪急の職業野球団結成 計画が「漏れ」阪神の後に 昭和100年だヨ 全品集合 阪急ブレーブス編
宮武は「阪急軍」の契約1号。初代主将を務め、背番号「1」を付けた。彼が投手だったからでも、希望したからでもなく、1番に契約したから。単純な理由だ。以降の選手も同じ。こうして11年1月23日、「大阪阪急野球協会」は発足した。本拠地は宝塚球場。監督は慶大出身で9年に発足した「大日本東京野球倶楽部」監督を務めた三宅大輔が就任した。
真新しいユニホームは白地で首から胸にかけ、赤と紺のラインが入っており、胸には「ブラックレター書体」のアルファベット「H」一文字。なかなかに格好いい。チームのモットーは「清廉かつ華麗」。
ところで「ブレーブス」になったのは? それは戦後のこと。「第2話」で―。
■5カ月で完成した西宮球場
西宮球場(兵庫県西宮市)が完成したのは昭和12年4月30日。「竹中工務店」は昼夜兼行の突貫工事でなんと5カ月で建てた。両翼91メートル、中堅120メートル、5万5000人収容の大球場。地上9階建てで外装はクリーム色。「白亜の球場」と呼ばれた。
組み立て式の競輪バンクを設置すると競輪場としても稼働した。入場料は一般席50銭(特別席1円)、制服学生と軍人は半額で婦人と子供は無料だった。
小林一三氏の構想では、球場内に料理教室やカルチャー教室、ゴルフ練習場などを入れた「総合レジャー球場」にする予定だった。だが、米国視察中で指示がうまく伝わらず、一三が帰国した時には、やり直すことができないほど建設が進んでいたという。(田所龍一)