GOING UNDER GROUND、新作「爆音ノ四半世紀ep」。バンドとのシビアな向き合い方とそこにある覚悟
ミュージシャンの現在に、深く切り込むドキュメンタリー。GOING UNDER GROUNDは2年前にもこの企画に登場し、生々しい内容が反響を呼んだが、今回はその続き。4曲入りEP「爆音ノ四半世紀ep」を作るまでの変化を語る。聞け。バンドマンの覚悟とは、こういうことだ。
親方から「あのな、アニキはもう今日でクビだから」って
2年前、彼らのドキュメントを掲載した。 かなりの反響だった。誌面、そしてウェブへの転載に対する、読者やアーティストからの反応、そしてネットでたまたま読んだ人たちの声。みんな驚いていた。それはロックバンドを続けることのリアルが、そこに生々しくにじみ出ていたからだろう。 松本素生(ヴォーカル&ギター)「記事が出た次の日、朝起きたら、LINEにめちゃくちゃ連絡来てましたよ(笑)」 中澤寛規(ギター)「みんな『よく年収とかまで話したね』って驚いてたよね」 松本「赤裸々だねって言われたけど、そんなつもりもないんだよな。みんな、そんぐらい抱えて生きてるだろうと思ってたから、当たり前かと思ってた。そしたら思いもよらない反響で」 石原聡(ベース)「本当のことを言っただけだもんね」 少しだけ説明すると、GOING UNDER GROUNDは1992年、埼玉県桶川市で中学の同級生の4人で結成。その後5人になりメジャーデビュー。2006年には日本武道館公演も行い、活動は順調なはずだった。しかし動員は少しずつ下がっていき、気づけば事務所維持のため、やりたくもないライヴをやらされる毎日。何のためにバンドをやっているのかわからなくなってしまった彼らは、キーボードが抜け、しばらくしてドラムも脱退。毎月のギャラはストップし、バイトしながらの音楽活動が続く。それはまだよかった。やりきれなかったのは、あんなに楽しかったバンドを、自分たちがまったく楽しめなくなっていたことだ。 もうバンドは辞めようと思った。普通の仕事について、クソみたいな音楽業界、二度と関わるもんかと思っていた。それを引き止めたのは、またあの頃のような気持ちでバンドに向き合えるかもしれないという僅かな期待と、バンドへの身近な人たちの思いだった。詳しくは、ウェブに残っている前回の記事(https://ongakutohito.com/2022/10/06/going-under-ground-interview/)を読み返してほしい。そして前回は語られなかった、こんな話も出てきた。 松本「当時、俺、バンド辞めようと思って、バイトっていうか、普通に働いてたんですよ。マンションの外壁工事。バンドなんて二の次。とにかく食ってかなきゃなんないから、その仕事が優先。親方について、1ヵ月ぐらい同じ現場に通ってたんです」 中澤「当時はみんなそんな感じだった。バンドが楽しくなかったから、なにも積極的になれなかった」 松本「もう仕事にも慣れて、俺はみんなから〈アニキ〉って呼ばれてた(笑)。それがある日、小岩のマンションの現場が終わって、作業員の詰め所みたいなところでタバコ吸ってたら、親方が来たの。60歳くらいだったんじゃないかな。タガミさんって人なんだけど、めちゃくちゃ茨城訛り(笑)。その人には、俺、バンドやってるって話してたんだよね。昔、武道館やったこともある、ってことも。そしたら言われたんですよ。『あのな、アニキはもう今日でクビだから』って。意味わかんないですよ。めちゃくちゃちゃんとやってたし、筋がいいって褒められてたのに。だから帰りのハイエース、車内の空気が沈んでて。親方も仲間も無言なの。そしたら、もうすぐ新宿に着くくらいで、親方が言ったの。『アニキ……本気でやんなきゃいけないこと、あんじゃねえの?』って。『いや、もういいんです。終わるんで』って返したら、車降りる時に肩叩いて『頑張って失敗すんのと、頑張んねえで失敗すんのだったら、頑張って失敗したほうがいいんだかんな?』って」 先日、ライヴでもこの話をしていた。胸にグッときた。諦めようとしてた夢を引き止めた親方の言葉。去っていくハイエースを見送りながら、松本がポケットの中をまさぐるとガサガサの紙。さっきの現場の昼休み、マンションの屋上で親方が「甘いもんでも食っとけ」とくれたチョコレートの包み紙だった。〈最後ぐらい、いい曲書こう〉と思って、仕事が始まるまで、その紙に歌詞を書いていた。その姿を親方は見ていたのかもしれない。 チョコレートの包み紙に ふざけて書いた自分の歌 忘れないでその中に 僕らのすべてがあることを その出来事が、のちに「屋根の上のSSW」という曲となり、6月16日にリリースの「爆音ノ四半世紀ep」に収録された。そしてこのEPを聴くとわかる。前作と比べ、かなりバンドのモードが変化したことが。 松本「前回、年収は450万くらい。自分たちの食い扶持だけはきっちり稼いでる、って話したじゃないですか。あれ、めちゃくちゃ反響あったんですけど(笑)、それと同じやり方で活動していくことに飽きちゃったんですよ」 中澤「たぶん、どうやってもそれくらいは稼げる、活動のベースができたと思うんです。もうバンド以外のことはやりたくなかったので。音源を自分たちで作って、流通には乗せずに、CDは自分たちで直接送る。ライヴはこれくらいの数。最低ラインのギャラを決めて、休日の昼に定期的にライヴをやる。そしたらこれぐらい手元に残って、ちゃんと家族も養える。その責任は果たせてる。じゃあそのうえで、どうしたいか」 松本「生活はできるよ。でもわかったんだけど、流通や宣伝にお金をまわさないと、みんな素通りだよね。広がるわけがない。そうしたら売れるってわけじゃないんだけど」 中澤「なんとなくそれはわかってたよ。でも1回やってみて、どうなるか確認しないと嫌だったから。だって俺ら、前の事務所で給料2回止まってんだよ? その代わり物販の売上の何%を渡すからって、ごまかされてたんだから」 松本「そりゃ洋一(伊藤洋一/キーボード)も辞めるよ」 石原「いちばん大人だったんだと思う。あんな状態でバンドやるべきじゃないよ」 中澤「あれ? よういっさんからインタビュー読んだって電話かかってきたんだっけ?」 石原「かかってきたよ。素生もナカザも出ないから、俺にかけたって。『あいつら電話出ねえからよ。しょうがねえから雑魚のお前にかけた』って(笑)」