山本奈衣瑠とこささりょうまが語る映画『ココでのはなし』。作品が映し出す「共感」と「距離感」の関係
『ココでのはなし』というタイトルに込められたトリプルミーニング。「一時的な関係」のなかだからこそ気づく本心とは
ー劇中ではそれぞれの悩みや事情を抱えた人たちがある程度の距離感を持ちながらも、個々に共存している様子がとても印象的でした。お2人はゲストハウス ココで形成される人間関係やコミュニケーションはどういうものだと感じていますか? 山本:ココに来たお客さんからしたら、詩子は「ココのスタッフ」っていう印象だと思うんですけど、詩子も最初はどうしていいかわからずに訪れた場所であって。だけど人を招く側の立場になってだんだんと使う言葉や出てくる顔も変わってくるんですよね。 場所が変わると自分も変わることってあるじゃないですか。同じように詩子も地元にいたときは、物理的にも精神的にも孤独だと感じていたし、ココに来てからもそのことにちゃんと向き合い切れてはいない。だけど、ココでの一時的なつながりを持つ人の前では、わざと丁寧に接するスタッフを演じることによって、新しい自分ができてきたんですよね。それはココに来た人たちも同じで、周りの景色や接する人が変わったときに、自分ですら知らなかった新しい自分が生まれる。そんな関わりができる場所だなっていうのは、演じながらもそうですし、完成したものを見てもすごく思いました。 こささ:すごくゲストハウスらしいコミュニケーションだなって思いますね。僕自身ずっとバックパッカーをしていたんですけど、ゲストハウスでの出会いってまあ他人じゃないですか。でも、他人だからこそ話せることってあるんだよなって思います。 山本:そこでやっぱりもう一個の自分がつくられていくんだよね。 こささ:そうそう。友達には隠しているような核心的な自分を、みっちーさん(本作の登場人物・外村道夫のあだ名)は顕著にココで出会った人に出しているなと思っていて。親が弱っていく姿を見ることができないから、ある種「逃げ」で旅人兼ライターをやってるっていうことって、親しい友達には正直に言えないことなのかもなって思うんですよ。 だけど、この場で出会っているという一つの交わりや、限定的な時間だからこそ喋れる関係性があるよなっていうのは思っています。 『ココでのはなし』の「ココ」には3つの意味があって。1つ目は「ゲストハウス ココ」の名前から、2つ目は「here」の意味のココ、3つ目は「個々人の話」という意味なんです。個々人って一見するとパーソナルなもので、関わり合っていないような聞こえかただけど、「みんないろいろある」ということを強調する言葉なのかなと思っていて。でも、あのゲストハウスでの一瞬だけはグラデーションのように交わりあって、1つの色になっている。だけどつぎの日になったら無言でご飯を食べてるっていう距離感って珍しいし、おもしろいことなのかなって思っています。 山本:みんなあの場で話してることや思ってることって、ずっと前から思ってたことなのに、親しい人には言ってなくて。だけど一時的に会った人に話してみると、ずっと口の中に留めていたときの味とは変わっていくんだよね。そういうコミュニケーションってあるよね。 こささ:バス停でバスを待ってるときのおばあちゃんとの会話ぐらいの感覚。そういうときにだけ、「なんか最近疲れてて」とか言っちゃうんだよね(笑)。 山本:そうそう! 内心「疲れてるな」ってわかってたけど、口に出して耳で聞くと、私って本当に疲れてるんだって認識したりするよね。そういうことを話せる相手や言える空間になった瞬間に、ずっと思ってたことのとらえ方が変わるよね。 こささ:だからココは「言葉にできる場所」だったのかなって思います。一見するとチグハグな関係性なんだと思うけど、それがゲストハウスらしいコミュニケーションのあり方なのかなっていうのは思っていますし、ゲストハウスの好きなポイントでもあります。