山本奈衣瑠とこささりょうまが語る映画『ココでのはなし』。作品が映し出す「共感」と「距離感」の関係
「見ている人にプレッシャーを与えない映画を」。監督が作中で描いた3つの視点と、その背景
ー本作では人との距離感が印象的に描かれているなと感じました。それはただ隣にいるとか、一緒にご飯を食べるとか、そういった距離感が強調されていたと思うのですが、そのことを監督、そして俳優の立場でどのように意識されていましたか? こささ:そこは結構意識していたところなんです。この映画をつくり始めた当初からスローガンのように「この映画を見ている人にプレッシャーを与えたくない」ということを言っていて。そもそも映画を見るってすごくエネルギーを使うことなので、なるべく説教くさくなるような、何かを断言することはしないようにしています。 アングルを切るうえでも、極端なクローズアップってなくて、机一枚挟んで話すぐらいの距離感で表情を切り取るようにしているんです。それと大事なセリフを言うタイミングで、発言者の表情ではなく、言われている側の表情を写しています。これは撮影時も、編集時にも意識していたこと。言われた側の表情にフィーチャーすることで、観客は言葉を受け取る側の人に共感しやすくなるのかなと思ったんです。 山本:私は監督とは逆で、悩みや苦しみを感じている当事者の視点で、他者との距離感をどう取るかを大事にしていました。映画って誰かに見てもらった時点で、私たちは何か情報を与える側になるわけじゃないですか。だからこそ、見ている人たちに寄り添うといったらおこがましいですけど、「私も一当事者です」という姿でいることはすごく大事にしました。 山本:その姿を示すことによって生まれるコミュニケーションの距離感があると思う。劇中で、「ゲストハウス ココ」に泊まっているゲストたちが出ていく直前、最後の食事のシーンがあるんですけど、「みんなで一緒に食べましょう」とはならないんですよね。みんなそれぞれべつの方向を向いて、ただ自分の食事をとる。「うちら全員同じように悩みがあって大変だよね」とかじゃなくて、「みんな違います」っていうのを全員が理解していて、自分の悩みの真ん中に私もちゃんといるような、そんな距離感を大切にしていました。 こささ:あのシーンは初日に撮ったんですよ。 山本:私はあのシーンがすごく好き。 ーすごく印象的なシーンですよね。登場人物は一人ひとり悩みやマイノリティ性を抱えていますが、それぞれのキャラクターが抱えている課題はどのように決めていったんですか? こささ:じつはコロナの時期に『みそしる』という短編映画を撮ろうとしたんです。自粛期間中に母親とテレビ通話をしながらご飯を食べていて、ひょんなことから喧嘩しちゃうんですけど、その日がたまたま母の日で。仲直りの仕方がわからなくて悶々とするんですけど、自粛期間中に何度つくってもうまくいかなかった実家の味噌汁の味のレシピを聞いて関係を修復するというストーリー。ちょっとうまくいかなくて断念しちゃったんですけど、企画自体はすごく好きだったから、これを形にしたいなと思っていたんです。 いまでは『ココでのはなし』を「コロナ禍の映画だ」とは思っていないんですけど、当時はコロナで悩んでいる人があまりにも多かったから、それを1つのトピックとして描いてもいいんじゃないかと。 本作では東京オリンピック・パラリンピックについても背景として描いていますが、当時はさまざまなイベントがキャンセルされていたなかオリパラは開催するということで、たくさんの意見が飛び交っていたじゃないですか。実際、開催後に日本は世界からどういう見られ方をされているんだろうっていうのは、ある種の記録映画として残しておくべきだなと思い、湯島存(ゆしま たもつ)というキャラクターのパートが生まれました。 こささ:また、日本には残念ながら日本国外に人種的ルーツがある人に対する差別が根強く存在していたり、その当事者たちから「日本は危ない国」と思われている側面もあったりすると感じています。そのなかで、外国人留学生の話は描くべきだなと思い、日本で心細く暮らす中国人のワン・シャオルーという人物が生まれたんです。ほかにも悩みを抱える人物は登場するんですけど、詩子、湯島、シャオルーの3つを重点的に描いていきました。本当はもっと描きたいことはあったんですけどね。