産婦人科医1年目の女性医師 アナウンサーや語学を活かした仕事より医師を選んだ理由
習い事、部活動は辞めずに受験勉強と並行 祖父がロールモデルに
大阪で昨年まで外科と一般内科の開業医をしていた祖父こそ、山田さんの原点。 「患者さんと接している姿や、家にも電話がかかってきて感謝されたり、手紙が来たりするのを間近で見ていました。開業医なので、地域の人の役に立っているのもよくわかりました」 幼少期から習っているクラシックバレエとピアノ、部活動も続けながら「どうしても現役で合格する」と心に決め、必死に受験勉強に挑み、晴れて医学部への進学が決まりました。 とはいえ、医学部での6年間の学生生活は、入学してからも勉強が大変。「1科目でも落とせば進級できない緊張感もあります。遊びもしましたが、年に2度の試験は1か月半前くらいから一日中、机に向かっていました。そのあたりも、仕事以外ではゴルフやカメラなど趣味が多彩で、メリハリをつけていた祖父に影響されているかもしれません」と振り返ります。 今では同じ医師となったことを喜んでくれるという祖父。「私のロールモデル。今と治療法は変わっていますが、患者さんへの接し方とか通じるものは同じ。いろいろ教えてもらっています」と畏敬の念を持っています。
医療現場ではつらい現実を目にすることも
努力を重ね、進む道を切り拓いてきた山田さんですが、もちろん実際の医療現場で数々の現実に直面しています。研修医として各科を回っていた1年目、外科で出会ったのはひとりの大腸がん患者でした。 「飲食店をされている女性で、とても元気な方。私も『頑張りましょう、きっと良くなりますよ』と励まして、その方からも『山田先生のおかげで元気が出た』と言っていただいたんです」 ところが、すでに別の科に研修場所が移っていた翌年、その患者さんの再入院によって再会。 「あれだけ元気だったのに、げっそりしてしまっていて。転移もあったようでもう手術にも耐えられないし、長くは生きられないだろうという診断でした。そのときは『頑張ろう』でも『大丈夫ですよ』でもないし……。なんて声をかけたらいいのか」と言葉を詰まらせました。 生死の境に直面するつらさ、言葉選びの難しさなど、医師としてどう向き合うかを思い知らされたそうです。 また、産婦人科では流産する患者さんにも初めて接し、誕生の喜びだけではない現実を突きつけられます。 「その方は3度目の流産でした。赤ちゃんはすでに13週くらいで人の姿をしています。そもそも産婦人科医になったのは産む喜びを手伝いと思っていたから……。子宮から取り出すのは心苦しかったし、ショックで自分自身もダメージを受けました」と打ち明けます。 そうした一方、思いを抱いてきた子どもの誕生が喜びをもたらすエピソードも。あるとき対応したのは、離婚の危機にあった夫婦でした。 「仲の悪かったおふたりでしたが、目の前で赤ちゃんが生まれ、ご家族全員で喜ばれて『一緒に育てていこうね』と絆が生まれた瞬間だったんです。みなさん、それぞれにストーリーがあるのだと思いました」 また、最近は出産に立ち会う男性も増えていますが「出血に慣れていなのか青ざめてしまう方、気を失い倒れてしまう方も。でも女性からすれば、体をさするとか、声をかけるだけで力になる。出産は女性だけの問題ではないと感じます」と、男性のサポートの必要性を強く認識したそうです。 山田さんが選んだ産婦人科は、思っている以上に緊張を強いられるようです。最近も、当直勤務中に赤ちゃんの心拍が急に下がって戻らない超緊急事態が発生。産婦人科1年目なので、通常は第一助手を務められる立場ではなかったものの、緊急を要する場には先輩医師と山田さんしかいませんでした。 「(先輩医師が)2分で赤ちゃんを取り出すと決めて、無事に産まれました。もし判断を誤って、すぐに手術ができなかったら亡くなっていたかもしれません。それでも、とてもやりがいを感じました」と、出産が必ずしも安産ばかりではないという現実を目の当たりにした瞬間でした。
職場は約8割が女性医師 研鑽を重ねる日々に充実感
現在の職場は女性医師が約8割と多く、出産を経ての復職に際して障壁もないので、昔のような男女差を感じることはないそうです。もちろん、山田さん自身もひとりの女性として「いつかは子どもを産みたい」と思う一方、「今は仕事が楽しい」と日々の経験の積み重ねに充足感を得ています。 「生殖医療や不妊治療に興味がありますし、卵子凍結のことなど正しい知識を伝えていけたら」と、医師としての将来像を描く山田さん。 「女性として患者さんに寄り添える医師になりたい」 若き女性産婦人科医は、人の役に立ちたいという目標に向かって成長を続けています。
芳賀 宏