1000年を経てようやく明らかになる悲劇の「為政者」たちの功績
高市皇子が造営にいそしんだ「新益京」(藤原宮)(筆者撮影)
古代にも、惜しまれて政界を去って行った為政者は大勢いた。ただし、「できる」からこそ暗殺され、排除されることがしばしばだった。業績は記録されず、あるいは手柄を横取りされてしまってもいる。その中のひとりが、大津皇子だ。 父・天武天皇崩御(天皇の死)の直後、大津皇子は謀反の濡れ衣を着せられ、殺された。叔母で天武の皇后だった持統(鵜野讃良=うののさらら)と藤原不比等の陰謀と考えられている。持統は息子・草壁皇子の即位を願ってライバルを消したのだろう。律令整備のために皇族だけで政治を動かす特殊な皇親体制をとっていたこの時代、皇位継承争いは熾烈を極めていた。即位すれば、強大な権力が転がり込んでくる。 ところで、『日本書紀』は草壁皇子が皇太子だったと証言するが、これは怪しい。『万葉集』が、『日本書紀』のウソを暴露しているように思う。大津皇子と草壁皇子は石川郎女(いしかわのいらつめ)をめぐって恋の鞘当てをしていたが、石川郎女は草壁皇子を袖にしたという。連載中述べたように、「石川郎女」は『万葉集』編者が用意した「蘇我(石川)氏」の隠号で、天武朝を支えた蘇我系豪族がこぞって大津皇子を推していたことや、草壁皇子の弱い立場を暗示していたのだ( 2015年7月17日『「言論弾圧」をかいくぐった『万葉集』の重み』 )。
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関裕二