なぜ中国人は高田馬場を目指すのか――「ガチ中華の街」になった高田馬場と歌舞伎町の二都物語
漢字圏の人間にとって親しみやすい町名
高田馬場銀座商店街振興組合・理事長代行の杉森昭祐さんも、高田馬場の「治安の良さ」を強調する。杉森さんは1942年生まれ。組合の最古参の一人だ。戦前に母親が創業した紙問屋を戦後、引き継ぎ、文具店として再建。地元で愛される店として半世紀近く営業を続けてきた。 しかし、数年前に体調を崩したことをきっかけに、早稲田通りに面した店舗そのものはやめてしまった。今でも昔なじみの客から注文を受け、細々と商売は続けている。 「高田馬場が中国人を含むエスニックタウンになったのは、この十数年の出来事です。山手線の隣駅の新大久保は1980年代以前から中国や韓国、イランなど中東の人が集まる街だった。今でこそ韓流の街として観光地になっていますが、当時は派手なネオンが瞬く怪しげな店も多く、ちょっと怖いというイメージがありました。一方の高田馬場は早稲田大学の最寄駅。教育の街であり、表通りは地域密着の店舗ばかりでした。だからこそ、そうした怪しげな店が流入する隙間がなかったのです」 確かに高田馬場の駅前には、学生相手の金貸し業の看板や、派手なネオンの大人の社交街こそあったものの、街の治安、秩序は保たれていた。 しかし、私がこの街に、ある意味での「寄せ場感」を感じるのは、この高田馬場の多国籍化の歴史が、東洋一の歓楽街と呼ばれた新宿・歌舞伎町と深い関わりがあるからだ。事実、30年ほど前まで、駅前には日雇い労働者に仕事を斡旋する「手配師」の姿があった。 「高田馬場は中国人など漢字圏の人間にとっては親しみがあるんです。東京のど真ん中にあるのに、名前に『田』とか『馬』が入っているでしょ。なんだか暮らしやすいイメージがある。事実、私も私費留学で来日した際、最初に暮らしたのが高田馬場でした」 そう語るのは、歌舞伎町案内人の異名で知られる李小牧さんだ。
中国人留学生の立身出世
李さんは新宿界隈では名が知られた人物だ。歌舞伎町にやってくる外国人の観光案内をする傍ら、ジャーナリストとしても活躍。生まれ故郷の中国・湖南省の料理を提供するレストランも経営している。2015年、日本に帰化すると、新宿区議選に3度も立候補。残念ながら落選したが、歌舞伎町の表通りは、李小牧さんのポスターで埋め尽くされた。 李さんは、戦後、中国から日本に渡り、横浜や神戸に中華街を拓くなどして日本に定住した「老華僑」に続く第2世代で「新華僑」と呼ばれる。 李さんが来日した頃、日本と中国は留学生を巡って利害が一致していた。中国は鄧小平氏の改革開放政策を契機に日本など国外を目指す若者が増え、日本では国際化のかけ声のもと、中曽根内閣が打ち出した「留学生10万人計画」が進められたのだ。 李さんが暮らしたのは、早稲田通りから神田川に向かって坂を下った場所だった。当時、外国人が借りることができる部屋は限られていた。来日前に中国で稼いだ全財産をはたいて「六畳風呂なし」の安アパートを借りた。当時、日本円で10万円もあれば、中国の地方都市にマンションが買えた時代で、日本と中国の経済格差は圧倒的だったという。 「とにかくカネのために働きました。ラブホテルの清掃員をしながら、外国人向けの職安で紹介してもらったティッシュ配りなどのアルバイトを掛け持ちしました。その後、歌舞伎町で外国人をストリップ劇場や風俗店に案内し、チップを稼ぐ客引きが当たって、それで歌舞伎町案内人と呼ばれるようになったのです。来日して半年で、月収が100万円を超えました」