「あの人、暴走族になっちゃったみたいよ」と、ご近所に囁かれて【昭和エモ伝Vol.3】
ライター・牧田哲朗が昭和時代のバイクシーンを振り返る
もうすぐ二輪メディア歴50年となるベテランライターが、日本におけるバイク黄金時代のアレコレを実体験と共に振り返る昭和郷愁伝。タイトルを改め、紙面からWEBへの引っ越し連載・第3回目は、自己紹介を兼ねて、バイクが繋げてくれたメディア系のお仕事について振り返ります。 【写真】映画「爆発! 750cc族」の完成記念撮影/岩城滉一さんの姿も
影武者キカイダーの誘い
大学生時代から手伝い始めたヤングマシンを中心に、もうすぐバイク業界歴が50年になるワタクシですが、そもそもの業界入りのきっかけは、自分の師匠的存在となる青山敦夫さんとの出会いから。当時出入りしていたバイク屋で、「暇なら仕事、手伝わない?」と誘われたのが最初でした。青山さんはテレビや映画のスタントをやっていた人で、有名所ではキカイダー01のサイドカーのアクションも担当してました。同時にロードレース活動もしていて、所属は須田レーシング。現・モーターサイクルドクターSUDAの、須田高正さんが主宰していたチームでした。 ──バイクの師匠になる青山敦夫さん(バイクにまたがってるメガネの人)。東映の映画やTVのスタントをやっていて、自然とそれを手伝うように。 テレビや映画の仕事といっても多岐に渡っていて、暴走族や白バイ役、役者さんの代わりに運転したり、ロケ先の下見にスタッフを送迎する運転手的な仕事までと色々。テレビの仕事では「非情のライセンス」とか「特捜最前線」、「ザ・ゴリラ7」、「ドーベルマン刑事」、子供向けなら「がんばれ!!ロボコン」とか「ゴレンジャー」なんかの仕事をやらせてもらったね。時代的にロケの撮影では、道路撮影許可なんて物も取らずにゲリラ撮影も多かった。カメラマンだけ配置して、リハーサル1回の本番1回でスピーディに撤収。交通量の少ない、朝一番を狙っての撮影も多かった。現在ならコンプライアンス的に大問題となることも、昭和では当たり前だったなぁ。
100台以上のマジ暴走族が集結
中でも映画は規模が大きいので楽しかったね。フルに仕事をしたのが「爆発!暴走族」(’75年)、「爆発!暴走遊戯」(’76年)、「暴走の季節」(’76年)、「爆発! 750cc族」(’76年)の爆発シリーズと呼ばれる青春暴走物。1作目は話題性作りということで、撮影所側が暴走族に交渉して、チーム実名で集めたから、集合撮影の時には100台以上のマジ暴走族が集まった。はい、ここで問題発生。敵対チームもいるので、小競り合いが起きる。頭に言って止めさせる。でも人数が多いので別のトラブルも起きる。クレーム処理係じゃないんだけど……。 ──東映大泉撮影所前で撮った当時の愛車・ゼッツー。撮影では暴走族役が多かったので、あの美しかった外装をそれっぽく衣装替え。おかげで近所の評判は……。