アジアン・ヤング・ジェネレーション~香港(1)【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】
連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第75話 2023年、この年最後の海外出張で、ウイルス研究の世界的メッカのひとつである香港大学を訪れた。香港で感染症といえば......。 * * * ■2023年最後の旅 2023年12月、この年最後の海外出張である。 目的地は香港。台湾には何度か行ったことがあるが、初めての中国大陸(地理的には正しい表現であり、地政学的にはたぶんあまり正しくない表現)である。余談だが、実はこの年の春に、北京に招待されていた。しかし、いろいろと慌ただしくしていてビザの入手が間に合わず、結局頓挫してしまった。 早朝の便で、羽田空港から香港へと向かう。10月のサンフランシスコ出張(63話)あたりからの名残りで、出張となるとなんとなく、くるりの曲を聴きながら飛行機に乗り込むことが多くなっていた。 このときのチョイスは、くるりの『THE WORLD IS MINE』というアルバム。「GO BACK TO CHINA」という曲が収録されているという単純な理由からだが、この曲のトーンが、私の中での勝手な香港のイメージをかたどるひとつのピースになっていたからなのもある。熱気と湿気と喧騒に満ちたネオン街というか、この曲から想起されるそんなイメージが、私の中での香港のイメージとちょうどオーバーラップしていたのだった。 この時期はちょうど、「中国でまた謎の肺炎!?」という報道が巷を騒がせていた時期でもあった。香港と「メインランドチャイナ」は行政的には別物とはいえ、特急電車に乗れば20分足らずで行き来できるらしい。マイコプラズマという細菌が原因と思われる肺炎が蔓延しつつあった中国である。サウジアラビアで苦慮した副鼻腔炎(71話)もようやく収まったところでもあったし、機内ではちゃんと不織布マスクをつけて過ごした。
■香港で感染症といえば 「香港」で「感染症」といえば、思い浮かぶことがふたつある。 まずは、1997年のH5N1鳥インフルエンザウイルス。私はインフルエンザの専門家ではないので詳しくは理解できていないが、H5N1鳥インフルエンザウイルスのヒトへの初めての感染例が報告されたのが香港だったはずである。 そしてふたつ目。香港といえば、重症急性呼吸器症候群(SARS)を避けて通ることはできない。このコラムでも何度か触れたことがあるが、SARSとは、新型コロナウイルスの親戚である、SARSコロナウイルスに感染することによって発症する感染症である。 そしてSARSといえば、『スピルオーバー』(デビッド・クアメン・著、甘糟智子・訳/明石書店)という名著がある。ということで、今回の旅のお供は、この連載コラムの11話にも登場したこの本となった。機内で改めて復習をする。今回会う予定になっていた何人かの香港の研究者たちが、この本に登場していた。 SARSアウトブレイクの世界への玄関口となったのは、何を隠そう、今回の目的地である香港特別行政区である。SARSコロナウイルスは、2002年の暮れのちょうどこの時期に、中国・広東省から香港に密かに忍び寄っていたことになる。 『スピルオーバー』は、甘糟氏による和訳書の刊行は2021年だが、クアメン氏による原著の出版は2012年。新型コロナが出現するよりも前に刊行されている。そして、「新型コロナパンデミックの予言書」とも呼ばれるこの本のSARSの章は、こんな言葉で締めくくられている。 "今ではあらゆるものが地球上をずっと速く移動しており、ウイルスも例外ではない。もしもSARSが逆のパターンで、発症前の感染力が強かったとしたら、2003年のアウトブレイクは効果的な対応が功を奏した例とはならず、もっとずっと暗い物語になっていただろう。 もっと暗い物語はまだ語られていない。もしも語られるとしたらたぶんこのウイルスではなく、別のウイルスについてだろう。「次なる大惨事(『ネクスト・ビッグ・ワン』というルビが付けられている)」はたぶんSARSとは逆で、インフルエンザのように症状が現れる前の感染力が強いパターンだろう。それによってウイルスは、死の天使のように軽やかに都市間や空港間を移動することだろう。" 2012年にクアメン氏によって記述され、予見されていた出来事が、2020年に現実のものになった、ということになる。