あくまで「育成」が目的のNPBのファームリーグだが、改革の必要性も
広尾晃のBaseball Diversity 日本のプロ野球は1936年にリーグ戦を始めたが、この時期の各球団の選手数は各チーム20人前後。この人数で年間100試合前後のペナントレースを戦っていた。投手は4~6人程度。一人で300イニング以上を投げる投手も珍しくなかった。
試合出場の機会を与えるために
日本プロ野球に「ファーム」の考え方が定着したのは第二次世界大戦後のことだ。 アメリカなど進駐軍の意向もあって、日本では野球がいち早く再開した。 プロ野球人気が急速に高まる中で、各球団には入団希望者が殺到する。球団は希望者の多くを断ったが、多少見込みのありそうな若者は「練習生」などの名目で、入団を認めた。 試合には出場できないが、他の選手と共に練習だけに参加すると言うステイタスだった。 選手数が増えるとともに、試合に出場できない控え選手、練習生などにも試合の機会をと言うことで、非公式の「練習試合」が行われるようになる。 そしてプロ野球が2リーグに分立した1950年頃から「日本でもファームを」との機運が高まり、1952年、中部以西の名古屋(現中日)、大阪(現阪神)、阪急(現オリックス)、南海(現ソフトバンク)、西鉄(現西武)、松竹、山陽の7球団によって関西ファームリーグが発足。のちにウエスタン・リーグと改称した。7球団のうち山陽だけはファームだけのチームだったが、山陽はこの年に解散した。
1954年にはセントラル・リーグが運営するファームリーグの新日本リーグが発足し、名古屋、大阪がウエスタン・リーグを離脱した。新日本リーグは、この年にパ・リーグに発足した新球団の高橋ユニオンズが、既存のセ球団からお客を奪うことを懸念したセ・リーグが設立した、と言われたが1955年限りで解散。 1955年には、イースタン・リーグが始まった。しかしこのリーグは翌年中断し、1961年に再開した。 こういう形でファームも「2リーグ制」となった。ウエスタン・リーグの運営はパ・リーグ、イースタン・リーグはセ・リーグが担当する体制もできた。