あくまで「育成」が目的のNPBのファームリーグだが、改革の必要性も
監督やコーチが二軍戦に出た時代も
大選手、大監督だった野村克也は1954年に南海ホークスに入団したが、1年目は一軍の試合に9試合出場したものの「肩が弱い」と評され、翌1955年は一軍出場なし。二軍であるウエスタン・リーグの試合に「一塁手」として出場し、 24試合78打数25安打1本塁打7打点.321 と言う成績を残している。打率はリーグ2位だった。ファームでのこの好成績で野村はクビがつながり、翌年以降の大活躍につながっていく。 野村のこの成績でもわかるように、当時のウエスタン・リーグは年間30試合程度だった。 ただ、1950年代から60年代にかけてのNPB球団は40人から50人と選手数が少なく、この人数で一軍のペナントレース130試合を戦ったうえで、二軍戦を戦うのは厳しかった。二軍戦の試合数を増やすのは難しかったのだ。 また二軍戦では野手が不足したために、投手が内外野を守ることもあった。そこでイースタン・リーグは、1966年7月に開かれた幹事会で「選手へ手本を示すため」に、二軍の監督、コーチの出場が許されることが決まる。「選手への手本」というのは建前にすぎず、選手不足を補うために二軍監督、コーチも試合に出場してもOKというのが実情だった。 この制度を利用して、東京(現ロッテ)のコーチの大沢啓二や、同じくロッテのコーチ植村義信などが、引退後何年もたって二軍戦に出場するようなことがあった。この制度は1983年まで続いた。
次第に増える二軍戦
1965年のドラフト制度導入後は、選手の定員は60人と決まる。またそれ以外の選手を「練習生」として入団させることも正式に認められた。各球団はドラフト外で入団させた選手などを練習生にした。練習生は、一軍の試合には出ないが、イースタン、ウエスタンの試合に出場することができた。 1992年、ドラフト外での選手の獲得が禁じられ「練習生」制度も廃止されたが、それとともに選手の定員が70人となる。 さらに、2006年に「育成選手制度」が導入され、育成ドラフトで入団した選手などを70人の「支配下選手」とは別に「育成選手」として入団させるようになった。 各球団の選手数が増えたのに伴い、ファーム公式戦の試合数も増えて、90~110試合前後となった。 1963年からはイースタン、ウエスタン両リーグの若手選手による「ジュニアオールスターゲーム(現フレッシュオールスターゲーム)」が始まる。 さらに1987年からはイ、ウ両リーグの優勝チームで「ファーム日本一」を争う「ジュニア日本選手権(のちに「ファーム日本選手権」)が開催されるようになる。 さらに2016年からはイースタン、ウエスタン両リーグの交流戦も始まった。