「ホモ・ヒストリクスは年を数える」(13)――誕生日文化と命日文化(下)
そもそも、人はなぜ年を数えるのでしょうか。令和時代がスタートし、元号という年の数え方に注目が集まっている今だからこそ、人がどのような方法で年を数えてきたのか、それにはどのような意味があるのかについて考えてみるのはいかがでしょうか。 長年、「歴史における時間」について考察し、研究を進めてきた佐藤正幸・山梨大学名誉教授(歴史理論)による「年を数える」ことをテーマとした連載「ホモ・ヒストリクスは年を数える」では、「年を数える」という人間特有の知的行為について、新しい見方を提示していきます。 第4シリーズとなる第12回、第13回は、誕生日と命日のとらえ方の文化による違いがテーマです。
現在に残る誕生日文化と命日文化
「日本人は、生きている間は集団的に年を取るが、死後は、一人一人が個別的に年を取る。ヨーロッパでは、人は生きている間は個別的に年を取るが、死後は集団的に年を取る」 知り合いの南アフリカにあるステレンボッシュ大学のラテガン教授のこの指摘を私なりに解釈し、前回、「誕生日文化」と「命日文化」と名付けた。 このような「死者を一括して弔うという文化」と「死者を個人として弔うという文化」の違いは、ほかにも様々な文化的要素の相違を生み出している。例えば、その一つに生誕記念と没後記念がある。(日本語では、現在生存中の人に関しては誕生という言葉を使用し、既に亡くなられた人に関しては生誕という言葉を使用して、使い分けをしているケースが多い) 日本では、伝統的に、没後記念がほとんどであった。これに対して西洋文化では、基本的に生誕記念がほとんどである。西暦の起算年をイエス・キリストが生まれたとされる年に設定したこと自体が最も象徴的である。 日本で歴史上、誕生日を祝ってきたのは、天皇だけである。この祝いは、天長節という名称で8世紀後半から行われていたが、それは御所内においてだけであったようだ。 即位した天皇の誕生日を国民で祝う制度が発足し、これが国民的行事になるのは、1873(明治6)年に天長節が祝日として定められて以降である。祝日の名称は1948(昭和23)年に、天長節から天皇誕生日に変更されたが、現在に続いている。 しかし、時代は変化した。 現在の日本では、生誕記念と没後記年のふたつが並び立つ時代となった。 江戸幕府を開いた徳川家康の正式肩書きは征夷大将軍であり、形式的には天皇から国家統治の大権を委ねられた人物である。これを考えると、徳川家康には没後記念はあったが、生誕記念がなかったことはうなずける。 しかし、2013年より愛知県岡崎市は家康公生誕祭を開始している。もちろん、徳川家康の薨去(こうきょ)400年の記念祭も2015年に実行されている。 2014年にカラヤン没後25年記念盤がワーナーミュージックから発売されたが、日本だけの企画で、ヨーロッパでは発売されていなかった。