【映画『ルックバック』評】文化はひとを救い、時に殺す(磯部 涼)
青葉真司の文化的好奇心
そして受け止めがたいことであるが、“男”は我々の中にもいるのだろう。私が京都アニメーション放火殺傷事件という前代未聞の凶悪事件と自身との繋がりを感じてしまったきっかけは、ひとつの写真だった。2019年7月26日、埼玉県さいたま市のアパートの一室から、家宅捜索に入った京都府警の捜査員によって「BOSE」のスピーカー=901SSとサブ・ウーファー=AWCS-2-SRが運び出された。 何気なく見ていたネットニュースのその様子を捉えた写真に目が留まったのは、現場の雰囲気と、数人掛かりで抱えられた、ちょっとしたクラブだったら成り立ってしまいそうな強力なサウンドシステムがあまりにも不釣り合いだったからだ。また、“キャノン”(大砲)の愛称でも知られる後者の大型円筒形サブ・ウーファーの先端部が、叩き割ったかのように著しく破損していたことも異様だった。 当時、私は『令和元年のテロリズム』(新潮社)という同時代の凶悪事件を追うルポルタージュを連載していて、取材で部屋の前まで行ってみたが、そこはキッチンが1畳、リビングが8.3畳の部屋が組み合わせられた2階建ての無機質なアパートで、ここであのサウンドシステムを鳴らしていたとすれば、やはりそれは常軌を逸しているとしか思えなかった。 部屋の借主は他でもない青葉真司被告。隣人によると、被告は常日頃、上述のサウンドシステムで「ゲームのファンタジー系の音楽」を大音量で鳴らし続けるなど度々騒音トラブルを起こし、2019年7月14日の夜には苦情を言ったその男性に掴み掛かり「こっちは余裕ねえんだよ、殺すぞ」と凄んだ。翌朝、被告は部屋を出て京都へ向かい、現場周辺を徘徊した上で事件を起こすため、この出来事はトリガー、あるいは臨界点だったと思われる。 一方、裁判で被告は自身こそが周囲の騒音に悩まされていたし、対抗するために大音量で対抗したと主張しているが、諸々の証言と照らし合わせると彼は精神的失調により過剰反応していた可能性が高い。 ただ改めて注目したいのはサウンドシステム自体だ。901SSとAWCS-2-SRという組み合わせは決してもともと嫌がらせで買ったわけではなく、そこには、青葉被告の文化への強いこだわりが表れているのではないか。裁判記録を確認すると、彼は高校時代、音楽にのめり込み、バイトを掛け持ちして楽器と合わせてBOSEのスピーカーを買ったという。事件前、被告の最後の住まいとなったアパートに置かれていたサウンドシステムはその文化的好奇心の延長線上にある。そして家宅捜索では大量の原稿用紙も押収された。