【映画『ルックバック』評】文化はひとを救い、時に殺す(磯部 涼)
2度の改変から見えてくること
また藤本タツキの作家性から考えると、原作版から読み取れるものは、映画版のコピー「──描き続ける。」のようなシンプルで力強いメッセージだけでなく、もう少し捻れたものもあるだろう。例えば前述した短編集のもうひとつで、『ルックバック』のプロトタイプ「妹の姉」が収められた『22-26』の後書きに書かれているのは、以下のようなエピソードだ。 藤本はやはり大学時代、貧しい中で飼っていたメダカが死に、「寄生獣みたいに」ゴミ箱に捨てようとしたところ同居人に咎められ、彼女に言われた通り公園に埋めに行った。素手で穴を掘るのに苦労している内、地面に置いたメダカの死体に蟻がたかり始める。「僕はどういう感情なのか、そこで初めてメダカを大切に思う気持ちが芽生えてきて、蟻を払いのけてメダカを食べました」。彼は次の日、胃腸炎になり、同居人から何か変なものを食べたのではないかと問い詰められたが誤魔化す。「僕は人にたくさん怒られてきたので怒られるのが怖いと嘘をついてしまいます」「そして今、飼っていたメダカを食べた罪悪感よりも彼女に嘘をついた事のほうが今でもずっと記憶に残っています。この場で罪の告白をさせて下さい」。 そう終わる文章は、『17-21』の感動的なそれとは違って不可解で、どこか可笑しくもある。もちろん読者ならば、藤本作品で死肉を喰らうことが重要なモチーフになってきたことを知っているはずだ。また、彼はデビュー作『ファイアパンチ』の第1巻・著者コメント欄で「ニューヨークやワシントンなどで弁護士をしています。絶対に被告人を無罪にします」などと適当なことを書いているわけで、『22-26』のエピソードも単なるホラ話なのかもしれないが、だとしたら『17-21』のそれもそうなのかもしれなくて、つまりそう思わせてしまうような、いわゆる共感に収まらない噛み切れなさ、食えなさこそが藤本作品の核にあるはずだ。 『ルックバック』の、前述の男の登場シーンが2度改変されていることについても触れておくべきかもしれない。初公開時、事件についての記事(1)「大学内に飾られている絵画から自分を罵倒する声が聞こえた」、男のセリフ(2)「オマエだろ 馬鹿にしてんのか? あ?」「さっきからウッセーんだよ!! ずっと!!」(3)「元々オレのをパクったんだっただろ!?」「ほらな!! お前じゃんやっぱなあ!?」などについて、幻聴や妄想を伴う統合失調症に対するステレオタイプな差別的表現ではないかという批判の声が挙がる。 それを受けて後日、(1)「『誰でも良かった』と犯人が供述して」(2)「今日自分が死ぬと思ってたか? あ?」「今日死ぬと思ってたか!?」(3)「絵描いて馬鹿じゃねえのかあ!?」「社会の役に立たねえクセしてさああ!?」に改変。ただしその第2版公開当時から、男もまた創作者だったという複雑な設定が、動機不明、理解不能なモンスターになってしまっているのではないかという批判があった。 結局、単行本版、及びそれを踏まえた映画版では、先述した通り(1)「被告は『ネットに公開していた絵をパクられた』と供述しており」(2)「この間の展示っ…俺の絵に似たのっ…あったろ? あ?」「俺のネットにあげてた絵! パクったのがあったろ!?」(3)「俺のアイディアだったのに!」「パクってんじゃねえええええ」と、幻聴の表現は避けつつ妄想の表現を復活させている。 ここからも男のモデルが明らかに青葉真司被告だということが分かる。あるいは第2版のセリフ「絵描いて馬鹿じゃねえのかあ!?」「社会の役に立たねえクセしてさああ!?」は、その前の藤野の独白「なんで描いたんだろ…」「描いても何も役にたたないのに……」を繰り返しているわけで、やはり男が藤野/京本の分身であるという設定は作者の中でぶれていないとも言えるのではないか。