「神」や「鬼」ともコミュニケーションできる…「日本の和歌」がもっていた「スゴいちから」
「和歌」と聞くと、どことなく自分と縁遠い存在だと感じてしまう人もいるかもしれません。 【漫画】床上手な江戸・吉原の遊女たち…精力増強のために食べていた「意外なモノ」 しかし、和歌はミュージカルにおける歌のような存在。何度か読み、うたってみて、和歌を「体に染み込ませ」ていくと、それまで無味乾燥だと感じていた古典文学が、彩り豊かなキラキラとした世界に変わりうる……能楽師の安田登氏はそんなふうに言います。 安田氏の新著『「うた」で読む日本のすごい古典』から、そんな「和歌のマジック」「古典のマジック」についてご紹介していきます(第六回)。 『樹木の心を動かし、精霊を成仏させる…昔の人々が信じた、和歌の持つ「特別な力」を知っていますか?』より続く
歌は「人外」が前提!?
「歌」の語源を「訴ふ」だという人がいます(折口信夫ら)。 思いが声として外に出たものが歌だというのです。思いは自分の中に留めていれば、ただの思いです。しかし、声として外に出れば、それはどのような形であれ人を動かします。しかも、それが「歌」だった場合は、人だけではなく植物のような人間以外の存在をも動かしてしまう。藤原為相の歌が楓の木の心を動かした『六浦』はそのような了解がベースとなった能です。 「人以外のものを動かすなんて、そんなのはお話だからだよ」と思うでしょう。ところが、和歌はもともとが人間以外のものとのコミュニケーションツールであったようなのです。 奈良時代に『歌経標式』という書があります。藤原浜成による日本最初の歌学書といわれるものです。その冒頭には次のように書かれています。 歌のルーツをたずねてみれば、鬼神の幽情を感じさせ、天人の恋心を慰めるための方法であった(原夫歌者、所以感鬼神之幽情、慰天人之恋心者也) 「鬼」とは死者の霊魂、「神」とは天地の神霊をいいます。天地万物の霊魂や天人をあるいは感じさせ、あるいは慰める、それが歌なのです。 そうそう、ちょっと余談ですが、ここの天人の恋心の「恋」。古代における「恋」とは、いま私たちがイメージするものとは少し違うものでした。『万葉集』にはたくさん詠まれる「恋」が、同じく奈良時代に書かれた『古事記』や『日本書紀』にはほとんど現れない。これも不思議でしょう。古代の「恋」についてはいつか扱いたいと思っています。