「神」や「鬼」ともコミュニケーションできる…「日本の和歌」がもっていた「スゴいちから」
恐るべき「力」
さて、話を戻します。 歌というのはもともと人間以外の存在とのコミュニケーションツールだった、そういう考えは、平安時代になっても続いていました。『古今和歌集』の仮名序を読んでみましょう。 力をも入れずして天地を動かし、 目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、 男女の仲をも和らげ、 猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。 歌の対象として挙げられる最初のふたつが「天地」と「鬼神」。『古今和歌集』でも、歌の対象の基本は非・人間です。 ところがこちらは後のふたつが人間になります。ひとつは「男女の仲」、そしてもうひとつが「猛き武士の心」。 「男女の仲」は異性との関係ですね。「猛き武士」は、勇猛な武士といってしまうと現代人である私たちには抽象的すぎます。酒を飲んで、ぐでんぐでんに酔っぱらって手をつけることができないマッチョな男をイメージするといいかもしれません。 異性というものは、本当のところはなかなかわかりあえない。言葉が通じないと思うこともある。ぐでんぐでんの酔っ払いなんてもっとそうです。 そんな言葉の通じない相手ともコミュニケーションすることができる、それが歌だというのです。 歌の力、おそるべしです。 『なぜ人間は「歌」や「詩」に惹かれるのか…「中国の古典」がおしえてくれる「意外な理由」』へ続く
安田 登(能楽師)