<編集長に聞く>世の中の「カウンター」でありたい――月刊「創」篠田博之氏
大手マスコミ報道の「限界」とネットの役割
――――新聞やテレビなど大手マスコミが伝えていないことも多いと。 篠田編集長:かつてはメディアといえば新聞・テレビで、そこに報じられたことが「事実」として認知されるという状況だった。そういう状況に風穴をあけたのがネットというメディアで、市民が自分で発信できるようになったことの意味は大きい。新聞・テレビの報道が相対化されたことで、大手メディアに対する批判的空気が厚くなった。典型は原発報道で、新聞・テレビの「安心・安全」報道が、結果的に政府の言うことをそのまま伝えているだけではないかという批判が噴出した。 もちろんネットにも多くの問題点があるのは明らかだ。しかし、新聞・テレビが独占していたメディアの世界に、玉石混交であれ、異なる言論空間が出現したのは良いことだと思う。しかも、既存の媒体が地盤沈下したせいで、言論の携わる人たちのネットへのシフトがこの1~2年、急速に進んだ。ある意味で、ネットが徐々に、新たな言論空間になりつつあると感じる。
「発信する場」を求めマスコミに
――――最初から「編集」を志していたのか? 篠田編集長:小学生の頃から壁新聞を作るのが好きな子どもだった。「団塊世代」の最後の方の人間で、「自己否定の論理」など、その時代の学生運動の影響をすごく受けた。自身も学生時代の後半は学生運動にのめりこんだ。出身の一橋大学は、当時は商社や銀行にはフリーパスで就職できる状況だったが、そんな生き方でいいのか、という問いかけをつきつけられて、大学3年のころにはそういう企業に就職しようという気持ちは全くなくなっていた。卒業後も、自分の信念を曲げないで生きていける仕事を、ということで雑誌の編集に携わることになった。 1970年代の雑誌ジャーナリズムの世界には、団塊の世代の元活動家がたくさん流れ込んでいた。70年代から80年代にかけて週刊誌ジャーナリズムが活性化したのは、そういう人たちがフリー記者として活躍したからだと思う。 私はといえば、大学卒業後、3年ほど小さな雑誌で編集の仕事をした跡、81年に月刊「創」編集部に入り、同年、20代で編集長になった。82年に当時のオーナーが雑誌をやめるというので、編集者3人で創出版を設立し、「創」の発行を続けた。それから30年余たったが、苦労の連続だった。今は編集長兼オーナーだが、この何年かは、出版不況の深刻化で雑誌を続けるのは本当に大変だ。でも、総合月刊誌が次々と休刊していくのを見て、逆に簡単にはやめられないなと思うようになった。