無名ボクサーが中国英雄を倒した!日本史上最大の番狂わせはなぜ起きたのか
木村には8年間のブランクがあった。ボクシングを始めたのは玉井中3年生。地元の熊谷コサカジムの門を叩く。元世界Jミドル級(現在、スーパーウエルター)王者の工藤政志氏を生んだ埼玉の名門だ。 「喧嘩に強くなること」が、入門理由で友人と2人で入ったが、最初のスパーリングで、実績のあるボクサーと対戦させられ、ボコボコにされた。「ボクシングはこんなにすごいものかと思い知らされた」。本庄北高では1年からインターハイ出場を果たしたが、1回戦で敗れた。そして1年でボクシング部を辞め、高校は卒業したが、以降、23歳になるまでボクシングとは縁を切った。 「夢ってこうやってあきらめていくもんなんだなあと思いました」 だが、24歳になって木村は、再びボクシングがしたいと、熊谷コサカジムに相談にいった。小坂会長から推薦されたのが、青木ジムだった。そのきっかけが何だったのかと聞くと、「色々ありました。そのひとつに母が亡くなったことがあります」と少しだけ神妙な顔をした。母親の真由美さんは、木村が20歳のときに乳がんで天国に旅立っている。 有吉会長は、小坂会長から「素材はすごい。問題は性格、気持ちの部分だけ」という引継ぎを受けた。それでも、2年前、木村の初練習を見たとき「こいつは世界を取れる」と直感で感じた。 「パンチの思い切りの良さ。スピードもあった」 だが、8年のブランクを経て臨んだ2013年4月のデビュー戦は王子翔介(E&Jカシアス)に1ラウンドにKO負けした。「僕がボクシングを舐めてたんです。この程度で勝てるだろうって」。また辞めると言い出した木村に、有吉会長は「本当にボクシングだけに打ちこみ勝負してみろ!」と説いた。 「もう絶対に負けない。それだけの練習をしました」 以降、木村は、引き分けを挟み14勝と連勝を続け、世界の舞台へとつなげたのである。 世界のベルトは買取制度のため、数週間しなければ手元には届かない。喜びに浸る前に次なる試練が待ち受けている。90日以内にランキング1位との指名試合を初防衛戦として行わねばならないのだという。1位は、元WBC世界ライトフライ級王者の五十嵐俊幸(33、帝拳)である。フライ級には、WBA同級王者の井岡一翔(井岡)、WBC同級王者の比嘉大吾(白井・具志堅)と2人の日本人王者がいるため、周囲は、日本人同士による統一戦に期待を寄せるが、指名試合をクリアした後のタイミングでなければ実現は難しい。 井岡とは同学年。1回戦で負けたインターハイで井岡が勝ち進んだという因縁もあり「縁を感じるし、やりたい」と、木村は言うが、現実的には、まず五十嵐戦。その五十嵐に関しては「技巧派ですよね。すみません。見たことがないんですよ」と笑う。五十嵐といえば、元3階級王者、八重樫東(大橋)との激闘が記憶に新しいが、「それも知らないんです」。「でも」と木村は続ける。 「まぐれだと言われないように。これからが勝負です」 帰国便が遅れたため、取材もそこそこに、木村は上野行きの最終電車にギリギリで乗り込んだ。 車内で長々とインタビューに応じてくれた木村が、日暮里駅に列車が滑り込む間際に言った。 「やっぱ夢ってあきらめないことなんすよねえ」