無名ボクサーが中国英雄を倒した!日本史上最大の番狂わせはなぜ起きたのか
ゾウ・シミンへの挑戦が決まるまでは、一転、二転どころか「四転、五転した」(有吉会長)。木村が、昨年11月にパンパシフィック・フライ級王者になって世界ランキング入りすると、1月に話が浮上した。木村は、酒屋の配達のバイトを辞めて世界戦へ集中できる環境を作ったが、4月の話が消え、木村は「生活ができない」と、またバイトを再開していた。 6月上旬にはついに話は立ち消えになった。世界戦の予定がパンパシフィックタイトルの防衛戦に変更になり、「世界戦以外、やるつもりはなかった」とさえ思っていた木村は、大ショックを受けた。だが、それを伝えられた翌日には、練習に出てきたという。そこから、急転、交渉が動く。ゾウ・シミン側から正式オファーが届いた。木村には心の準備も対ゾウ・シミン対策もできていた。 「かなりメンタルは、ぶれまくりましたが、1月からずっとゾウ・シミンをどう倒すかのイメージして練習をしていたんで。だから勝てると自信はあったんです」 有吉会長も「ゾウ・シミンにはスキがある。不安もあったけれど自信はあったんです。私はネットの類を見ないので、どんな批判をかかれたか知りませんが」という。 ゾウ・シミンは、最初の世界タイトル戦は、井岡一翔も敗れたアムナット・ルエンロエン(タイ)に力負けして失敗。昨年11月に同じくタイのクワンピチット・ワンソイチャンジムから初王座を奪取したが、名トレーナーのフレディ・ローチとも離れ、そのファイティングスタイルは、ポイントアウトだけに走る迫力のないもので、プロ転向当時の勢いはないという見方がもっぱらだった。 それでも王者に足を使われポイントアウトを徹底されれば挑戦者に勝ち目はない。世界ランカーとの対戦経験のない7位の無名の日本人ボクサーを挑戦者に選んだゾウ・シミン側にも油断はあったのかもしれない。 試合前のゾウ・シミンの控え室は隣だったが、有吉会長は、その油断を見逃さなかった。 おまけにモニターにその部屋の中の様子が映し出されていた。次から次へと支援者や芸能人までが、試合直前のゾウ・シミンの激励に訪れ、まるで集中できていなかったという。 「あれを見て、中国での防衛戦は、かなりプレッシャーなんだろうなと思った。隙があるぞと」 一方、青木ジム陣営は、ドアを閉め、関係者以外の立ち入りを許さなかった。 中国入りしてから、遠慮ない地元メディアの連日の取材攻勢に辟易していた。中には、反日感情を煽ろうと、挑発的な質問を投げかけて売る過激なメディアまであった。だが、有吉会長は「この試合は、戦争でも政治でもなくスポーツだ」と通してきた。 「木村は、知り合いがいる場所では集中力を欠く。かえってアウエーが良かったんです」 有吉会長は、ジャイアントキリングを呼ぶ風を感じていたという。