伊那谷楽園紀行(5)シアトルにもフィジーにもなかった伊那谷の風景
時間は夕方近く。夕食のことを考えて、おにぎりに心惹かれながらも、温かいコーヒーだけを注文した。カウンターにいた店主の田畑隆志が、ぼくの顔を見て「おや」と声を出した。 「今日はなにかあるの?」 「明日は、忘年会なんです」 この場所を借りて「ここい~な」をオープンした。田畑は道路の向かいで「ココンダ」という名前のレストランを営んでいる。その店は、それまで2回だけ宴会で使ったことがあった。 レストランの看板には、南国料理・無国籍料理という名前が記されている。宴会となるとメニューが変わる。その2回とも、立食形式の宴会だったのだが伊那谷の名物であるローメンや、馬刺しも大皿に盛られていて、伊那谷の食を存分に堪能することができた。その時に、二言三言くらいしか言葉を交わしていない、ぼくのことをちゃんと覚えていたのには、驚きを禁じ得なかった。 コーヒーを受け取り、椅子に腰掛けてカップから伝わる温かさを感じていると、田畑がカウンターから出てきて、ぼくの隣に座った。 「伊那市に場所を作りたかった」 雑多な会話の中で、新たな出店を決めた理由を尋ねたところ、田畑はいった。 「こんな田舎には住みたくないと思っていた。とにかく、抜け出したかったんだ」 それが、伊那谷に生まれ育った田畑の10代の頃の想いだった。気持ちは、ずっと関東へと向いていた。だから、高校を卒業すると、すぐに東京に出た。選んだ仕事は料理人だった。両親もやはり伊那の街で料理店を営んでいたから、もっとも親しみのある職業だった。 いくつかの職場で経験を重ねているうちに「ウチで働かないか」と、スカウトされた。その魅力的な誘いに、人生の希望を感じて、すぐに了解した。連れていかれたのは、シアトルにある日本総領事館。仕事は、総領事の公邸の使用人。「味の外交官」とも呼ばれ、要人や賓客をもてなす公邸料理人として雇われたのだ。 初めて見る、緑色の公用旅券を手に田畑は、旅立った。 シアトルで4年を過ごした後、雇い主である総領事の転勤で、今度はフィジーに移った。そこで、また4年。合計8年あまり。日本から遠く離れた見知らぬ土地で、新しく出会う食材に驚き、料理の腕を磨く日々が続いた。 1年のほとんどの間、空がどんよりと曇り、霧雨の続くシアトル。灼熱とスコールのおりなすフィジーでの生活を終えて帰国した田畑は、久しぶりに故郷へと足を向けた。 何年ぶりかに見る、伊那谷はまったく別のものに見えた。高校生の頃は、汚い川程度にしか見えなかった天竜川の流れは、どこで見る川の流れよりも美しかった。2つのアルプスに挟まれた僅かな平地の真ん中を大河が流れる。晴れた朝に、南の方を見れば駒ヶ岳の千畳敷カールが光る。食材も、山や川で季節ごとに豊富にとれる。 「こんな土地は、世界のどこにもなかった。それも、大都会から僅か3時間ほどのところに」 そして、田畑は伊那谷に店を開いた。 「伊那谷の風土は知れわたるといいと思っている」 そんな希望を、田畑はバスターミナルに託しているように感じた。自分がそうだったように、伊那谷の外を経験した人。あるいは、ぼくのように、なにかを探して伊那谷にやってくる者。そうした人々の営みが、伊那谷をほかの地域に知らしめ、また新しい風を吹き込んでくれるという希望。そんな理想が、このカフェと売店には結実しているように見えた。そんな感想を、ぼくが口に漏らすと田畑は照れくさそうにいった。 「本当は、もっと泥臭いんだけどね」