伊那谷楽園紀行(5)シアトルにもフィジーにもなかった伊那谷の風景
伊那バスターミナルは、それとはまったく違っていた。気温の高低だけではない暖かさを感じさせる室内は、古ぼけた前の建物の時にもあった、出会いと別れとが交錯する終着駅の雰囲気を、より濃密なものにしていた。 もう旅の空でも感じる機会の減った「ステーション」の匂い。その匂いの元は、新築に併せてオープンした売店兼喫茶スペース「ここい~な」だった。 新築に併せて、従来の売店をリニューアルして、カフェも併設する新たなスペースがオープンすることは聞いていた。それが、どんなものになっているのかは、少し気になっていた。 これまでの旅の中で、各地でどうしようもない店舗も見てきた。東京の繁華街にいくつもある、自治体が関与するアンテナショップもそうである。その土地の産物をところ狭しと並べ、現地のスーパーにでも足を踏み入れたかのように錯覚させてくれる店ならばよい。でも、なにを勘違いしたのか、やたらとブランド志向で高級志向を目論み、気軽には買えない値段の地酒やワイン、味噌などを売っているところも絶えない。 数年前に、銀座の一等地に「銀座NAGANO」がオープンした時は、見事に期待を裏切られた。建て替え工事中の案内に添えられたイメージイラストは、過剰にオシャレな雰囲気があった。だから、期待よりも、そんながっかりするような店になっていなければいいなくらいに思っていた。 建て替えたからといって、バスターミナルの建物が大きくなっているわけではない。建て替え前の売店のように、小さなスペースに詰め込まれた雰囲気なのではないかと思っていた。 そうした想像はまったく間違っていた。 新たなカフェと売店のスペースは、道路に面した建物の一番よい位置を用いていた。道路に面した側はガラス張りになっており、冷たい雨の日にも拘わらず、明るさに満ちていた。調度品に使われているテーブルやベンチの無垢の木は、見た目の暖かさを与えてくれた。 もう片方の壁には、伊那谷の物産がセンスよく並べられていた。この地域の独特の食文化であるローメンやざざ虫。あるいは、地元で長らく評判の和菓子、洋菓子など。都市部のターミナル駅や観光地のバスターミナルなどでも、このように土産物を並べている売店は多い。 どこでもありがちなのが、ありきたりな定番品ばかりを並べていること。その土地の名前をいえば、誰もが思い浮かべるような食べ物。観光地の名前を冠した包装紙で包まれた菓子。人が交錯する場の売店の多くが考えるのは、出張者がとりあえず会社に持っていく土産に、買い忘れを補充する役割。 「ここい~な」のセンスは、そんなものとは違う。パッと棚を見ただけで、伊那谷ではどのような農作物が育つのか。普段、人々はどんな食べ物に慣れ親しんでいるのか。伊那谷に住まう人々の日常の風景を切り取り、それを去りゆく人に持って帰ってもらいたいという意志が匂っていた。 まだオープンから3日目。お祝いとして送られた花が飾られている店内は、旅人だけではなく、新しく出来た店の様子を見にきた地元の人々で賑わっていた。店の一番奥はカフェのカウンター。コーヒーは300円と、オシャレなカフェの雰囲気には似つかわしくないほど、安かった。そのカウンターに並べられた、いかにも手作りの素朴な感じの、おにぎりや巻き寿司も、心を引き寄せるなにかがあった。