古代「蹴る人びと」が恐れた「蘇我入鹿」の「祟り」
発掘調査で当初は法興寺(飛鳥寺)西門あたりにあったとされるが、現在はその西方やや離れた位置にある五輪塔の首塚(筆者撮影、以下同)
新国立競技場には旧国立競技場からカトリック美術家・長谷川路可が製作した野見宿禰(のみのすくね)像とギリシャの女神像(フレスコモザイク壁画)が、壊されずそのまま移されている。野見宿禰は出雲国造家と同族で彼の末裔が菅原道真なのだが、ヤマトの当麻蹶速(たぎまのけはや)と相撲をとった人物として知られる。国技の元祖だから、国立競技場の壁画に採用されたのだろう。ただし、現代のような相撲ではなく、野見宿禰は当麻蹶速を蹴り殺している。そこで今回は、古代の「蹴る人びと」の話だ。 サッカーは日本語ではア式蹴球(アソシエーションフットボール)、ラグビーは、ラ式蹴球、アメフトは米式蹴球と呼ぶ。文字通り「蹴球」は、球を蹴る競技だが、日本人はすでに7世紀から、球を蹴っていた。『日本書紀』皇極3年(644)正月条に、次の記事が載る。 中臣(藤原)鎌足は蘇我入鹿の専横に危機感を覚え、共に行動すべき英傑を求めていた。中大兄皇子に心を寄せていたが、たまたま法興寺(飛鳥寺。奈良県高市郡明日香村)の槻(つき)の木の下で打毬(ちょうきゅう)が行われたので、これに加わり、中大兄皇子の沓が脱げると、すかさず拾い上げ、捧げた。こうして2人は意気投合し、蘇我入鹿暗殺の策を練っていったのだった。
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関裕二